■繋がる未来―別視点―
01:父親と子供
日刊予言者新聞の記事がホグワーツ内に出回るのは実に早かった。ようやく秘密の部屋事件が解決し、平和が訪れたと思った矢先、継承者がジェームズ・ポッターの娘だと暴露されたのだ。
日記に操られていただとか、そこにハリエットの意志はなかっただとか、そういう真実は全てひた隠しにされ、ジェームズ・ポッターの娘が継承者だったと、父親はそれをもみ消そうとしていると書かれていたのだ。
皮肉な話だ。たとえば、これが何でもない普通の家の生徒の子供だったら仕方ないで済まされただろう。ところが、ジェームズ・ポッターの娘が犯人だったと分かれば、途端に「もみ消した」と称されるのだ。有名人の娘だからお咎め無しになったのだ、と。
クィディッチ競技場に向かう間だけでも、一体どれだけハリエットのことについて耳にしたか。
期末試験がなくなったことで浮ついていたのもあっただろう。要は夏季休暇まで暇なのだ。思春期の男女が生活するホグワーツはいつだって噂が大好きだ。
ドラコ自身も過去に何度かそういう話の種になったことはあるので、白けた顔で参加することはなかった。だが、ジェームズとルシウスの確執について知らない者はスリザリン寮にはいない。
「前回の継承者についてはアズカバンに入れられた……だと」
更衣室で新聞を読んでいたチームメイトが不意に顔を上げた。
「今回もそうなると思うか? でも、マルフォイにしてみればいい気味だと思うだろうな」
「それは言ってやるなよ」
笑いながら別のチームメイトと小突き合う。キャビネットの扉を閉め、ドラコが振り向いた時、フリントが入ってきた。チームメイトらは慌てて立ち上がる。
「いいか? 今年最後の練習だ。今年は継承者騒ぎのせいで中止になったが……来年は必ず優勝杯をいただく」
鋭い視線がチームメイトを這うように移動し、最後にドラコで止まった。
「今年チームに入れたからと言って来年もそうだとは限らない。油断しないことだな」
「……はい」
そっと視線をおろした先に、フリントの箒が映った。ニンバス二〇〇一、ルシウスがチームメイト全員に買い与えたものだ。怒って箒を投げ捨てた後、ドラコが箒置き場に返しておいたら、何食わぬ顔でまた使用していたらしい。
フリントは――他のチームメイトにも言えることだが――あまりものを大切にしない。競技中、自分のプレイに満足がいかないことなどごまんとあるが、そんな時に道具に八つ当たりする行為はよく見られる。ニンバス二〇〇一がそれに選ばれたときは、胸が締め付けられるのだが、彼らは想像だにしていないだろう。
練習が始まっても、日刊預言者新聞の記事やら、チームメイトの言葉やら、箒のことやらが頭の中をぐるぐる巡り、あまり身を入れることができなかった。そのせいでドラコはフリントからまたも説教を食らう羽目になった。
練習が終わると、再び更衣室に移動し、着替え始めた。とはいえ、ドラコはチームメイトと一緒に帰る気にならず、わざとゆっくり着替えた。皆が出ていったのを見て、ようやく伸び伸びと動き出し、ユニフォームをバッグの中に押し込む。
箒の手入れをし、更衣室を出ると、もう夕食の時間なのだろう、生徒がわらわらと大広間に向かっているのが見えた。
荷物を一旦部屋に置こうと、その流れに逆らって歩いていると、バタバタと騒がしい足音が聞こえた。
「マクゴナガル先生!」
ハリーの声だ。後ろにはロンもいる。
「どうして僕が証人になっちゃいけないんでしょう? 僕がバジリスクと戦って日記を壊した張本人なのに……」
「未成年で、その上親族のため、今回は断られたようです」
「先生、特別功労賞なんていりません。ハリエットを助けて……」
「……ポッター」
小さく息を吐き、マクゴナガルは立ち止まった。
「あなたの気持ちはよく分かります。ですが、あなたの父上を信じることです。署名が集まり、ダンブルドア先生も魔法省へ向かってくださいました。きっと良い方向に向かうでしょう」
「……本当にそうでしょうか?」
あまりにも展開の早い懲戒尋問。直前に出た日刊預言者新聞の記事。魔法界が今ポッター家に対する評価を落としているのは事実だろう。ハリーがバジリスクを倒したというのもどこまで信じてもらえるか。
懐疑的なハリーに対し、マクゴナガルはまたいくつか励ましの言葉をかけた後、去っていく。
ついと立ち聞きしてしまっていたドラコも慌てて去ろうとしたが、運悪くロンに見咎められてしまう。
「これもお父上に報告するつもりか?」
ハッとしてドラコは思わずロンを見た。睨みつけるようなその視線に射すくめられる。
「お前が記者にハリエットを売ったんだろ?」
咄嗟に言い返すことができなかった。後ろめたいことがあるように目を逸らすことしかできない。
「ロン、いいよ」
小さくハリーが制止する。
「言っても無駄だ」
固まるドラコを余所に、二人はそのまま階段を上がっていく。「でもハリー」と続けるロンの声が小さくなっていく。
誰かがバタバタと廊下を走る音でようやくドラコは我に返った。青白い顔で地下への階段を降りていく。
憔悴しきったハリーを見て、いい気味だという気持ちは湧かなかった。むしろあり得ない――申し訳ないという感情が込み上げてきて、ドラコ自身動揺していた。胸にナイフを突き立てられたかのようにロンの言葉が尾を引く。
自室に戻ると、クラッブもゴイルもいなかった。一人になりたい気分だったのでちょうど良かった。倒れ込むようにしてベッドに横になると、目を瞑り、背中を丸める。
――魔法界で育った子供にとって、アズカバンや吸魂鬼は恐怖の対象だ。悪い子には吸魂鬼が襲ってくるというのは親が子を叱る時の常套句だ。ドラコももれなくそう聞かされて育った。それでもアズカバンに行きたいと心から思い、実際に訪れたことが過去にある。幼い頃の話だ。囚人との面会を希望していた。もちろん本来は面会は何人であっても許可されていない。それでも許可されたのは、大金を積んだか、従叔父であるレギュラスが手を回してくれたのではないかと思っていた。当時は面会がどれほど難しいことなのか分からなくて、誕生日に必死に母に頼み込んだことを覚えている。
そしていざ訪れたアズカバン。
守護霊は三体も連れていたにもかかわらず、ドラコは自らの幸福が奪われてしまうような最低な感覚を未だに覚えている。牢獄は不気味で不潔で、何よりそこに住まう囚人たちはみな正気を失っていた。そして己の父、ルシウス・マルフォイですら――。
ドラコやナルシッサが呼びかけても、ブツブツと壁に向かって独り言を続けていた。垣間見える横顔はげっそりと頬がこけ、昔の父の写真から想像しうる父親像とはかけ離れていた。
面会時間も残り僅かになり、これが今まで焦がれていた父親なのかとドラコが絶望していたとき、ほんの僅か、ルシウスが我に返ったのだ。ナルシッサの声に反応し、言葉を交わし、そして父がドラコを見てくれたあの時のことを今も忘れもしない。
『ドラコ……ドラコなのか?』
『父上……そうです。ドラコです。あなたの息子です』
『何歳になった?』
『十歳です。父上』
『十年……もう……』
檻の隙間から骨ばった手が出てきてドラコの頬を撫でた。ドラコは思わずとその手を握った。骨ばかりの、少し力を入れたら折れてしまいそうな手だった。
やがてその手は離れ、ルシウスの顔を覆う。
『まだ……まだなのか……』
その言葉を聞いた時、ドラコは果たして今日ここに来たことが父にとって幸福なことだったのか分からなくなった。まだ刑期は一年以上ある。正気を失ったままでいた方が、よっぽど時の流れが早かったことだろう。残りの一年、また途方もなく辛い時を過ごしながら出所を待ち焦がれる日が続くのだ。
それを自覚した途端、ドラコは逃げるようにしてアズカバンから出てきた。しばらくしてナルシッサが出てきたが、ドラコは己の幼稚な我儘がたまらなく恥ずかしく、そして独りよがりであることに今更気づき、母の顔を見ることができなかった。
どうして父に会いたいなんて言ってしまったのだろう。実際は父を苦しめることになることも考えずに、ただ周囲に駄々をこねて困らせて――。
思い出すことすら恥ずかしい記憶だ。それを今更どうして想起したのかは明白だ。
もし――もしも、ハリエット・ポッターがアズカバンに行くとして。
同級生の女の子にあんな所は耐えられないに違いない。自分とて、面会のためと必死に堪らえただけで、何度も行きたい場所では決してない。
もしジェームズが何らかの不祥事によりアズカバンに入ることになっていたのなら、胸がすく思いでもあっただろう。当然の報いだと。だが、彼女は。
違う――これは違う。
ドラコにも分かっていた。今回の事件の黒幕は父で、ジェームズ・ポッターに対する復讐なのだということは。そして同時に、父のしていることが間違っているということも。
父親のことに子供は関係ない――。
誰が言っていたか、今更ながらそんな言葉が脳裏を過ぎる。ドラコ自身がジェームズたちを同一視していたので本当に今更ではある。だが、その見方に変化があったのはハリエット・ポッターが箒を拾ったあの時からだ。
箒を拾う、ただそれだけのことだ。感謝するのも馬鹿馬鹿しいくらいのささやかな行動。だがそれが頭から離れない。
「ドビー」
反射的にドラコはその名を呼んでいた。
「ドビー」
もう一度声をかけると、ようやくドビーは姿あらわしをしてきた。ドラコの様子をうかがうように低姿勢だ。
ドラコの方は、落ち着かない様子で部屋の中を行ったり来たりしていた。頭をかき回したり、かと思えばじっと壁を見つめて考え込んだり。ドビーはそれを困惑しながら黙って見つめている。
「……今何が起きているのか知ってるな」
ようやくそれだけを口にした時、ドビーの耳はピクリと動いた。
「……それは……」
「ハリエット・ポッターが懲戒尋問にかけられている。わざわざ警告までしていたんだ、当然知っているだろう」
ドビーは項垂れた。怒られると思っているようだ。
次の一言を発するには、かなりの時間を要さなければならなかった。
「……助けたいか?」
「はい?」
「助けたかったら僕の言う通りにしろ。魔法省に行ってポッターの証言をしろ。自分の主人がポッターの荷物に日記帳を忍ばせたと。きっと裁判官は主人の名を出すように言うだろう。だが、絶対に父上の名は出すな。聞かれても言うな」
「なぜ……」
驚きよりも困惑が勝り、ドビーは信じられないといった表情で固まっている。ドラコは乱暴にタンスを開け、中から適当なベストを取り出し、差し出したことで、ようやくドビーは我に返った。震える手で受け取ろうとしたが、ドラコはまだ離さない。
「約束しろ。絶対に――父上の名も、マルフォイ家も口にするな。もし約束を破ったら――僕はお前を、一生許さない」
全てを言い終えた後もドラコはベストを手放せずにいた。本当にいいのだろうか? ドビーは不器用で失敗も多い。もし勢いで口走ってしまったら? 今まで不当な扱いをしてきた自覚はある。そのことを恨んで約束を破ったら?
アズカバンだなんて大袈裟だとドラコも思う。せいぜい退学が妥当だ。だが、五十年前の前例がある。ダンブルドアも停職にさせられた。半世紀は揺るがないと思われていたジェームズ・ポッターの地位もたった一つの記事で危ぶまれている。全てが悪い方向に噛み合うことだってあるだろう。
でも怖かった。もしもう一度父親がアズカバンに行くことになってしまったら。そんなことになれば、この時決断したことを後悔してもしきれないだろう。
それに、ジェームズ・ポッターなら、父が黒幕だと確信するはずだ。そして、娘をこんな目に遭わせた父を絶対に許さないに違いない。何としてでも証拠を見つけてアズカバンへ送り返そうとするはずだ。
「絶対に……絶対に……」
口実を与えてはいけない。ジェームズ・ポッターが父を追いつめる隙を作ってはいけない。そのためには、ドビーを解放してはいけない。それは分かっている。いるが――。
「ご主人様も、マルフォイ家のことも決してドビーは口にいたしません」
その時、初めてドラコはドビーの顔を見た。拳ほどの大きな瞳に涙を浮かべている。
「このご恩は決して忘れません」
そっとドラコの手が離れ、ドビーは深く頭を下げた後、すぐさま姿くらましをした。それを見届け、ようやくドラコは動き出した。随分長い間息を止めていたような気すらして、ドラコは浅く呼吸を繰り返す。
この行動が果たして正しかったのか、ドラコには分からない。もしかしたら数時間後には激しく後悔することになるかもしれない。いや、もしかしたらもうすでに後悔しているかもしれない。
自分でも自分のことが分からない。頭の中はグチャグチャで、何もかも忘れてしまいたい気分だが、そうなることは一生ないだろう。
身体は冷え切っているのに、ポツポツと流れ出る汗を止めることができずに、ドラコはベッドに倒れ込んだ。