55:老学者の小屋
雪崩に巻き込まれてからどれだけの時間が経ったかは分からない。ハッとダイアナが目を覚ました時には、既に四方を雪に囲まれ、満足に身動きもできない状態だった。辛うじて呼吸ができているだけでも奇跡だろう――と思ったダイアナだが、すぐに勘違いだと気付く。ホメロスだ。生き埋めになる直前、ダイアナのことを抱き抱えてくれたから、ちょうど顔の前に空間ができたのだ。もしこれがなかったらと思うとゾッとする。
「ホメロス? 大丈夫?」
自由に動けないこの状況下、ダイアナのすぐ上にいるホメロスの状態すら分からない。とりあえず声だけでもかけてみたが、返事がない。
「ホメロス!?」
もしかしたら雪に圧迫されて呼吸ができていないのかもしれない。サーッと血の気が引いていくのを感じた。何とかしてこの場から脱出できないかとダイアナは精一杯もがくが、あまりにも固く、重たい雪はピクリともしなかった。もしずっとこのままだったらと思うと、じわじわ恐怖が込み上げてくる。
声を張り上げてみても、当然反応してくれる人はいない。次第に歯の根が合わなくなってきて、手や顔や首や、肌の出ている部分がジンジン痛む。しまいには、どこからかドシドシと激しい振動まで響いてきた。また雪崩だろうか。この上更に上に雪がなだれ落ちてきたらもう助からない。絶望的だ。
もう駄目――そう思った時、ふっと暗闇の中に光が差すのが見えた。目を細め、顔を見上げれば、何か大きなものが今まさに開いた穴から覗いている。
「だ、誰……?」
その何かは一度引っ込み、しかしまたダイアナたちの閉じ込められた雪の塊に向かって体当たりをしたようだった。ドンと音が響き、ついには雪の塊があっという間に崩壊した。雪に塗れたまま見上げた先にはロボットに乗った魔物、ルバンカがいた。
「あ……」
道行く先を邪魔していた雪がなくなると、ルバンカは駆け足で坂道を登り、いなくなってしまった。
魔物によって危機に陥り、魔物に助けられたらしい……。
ダイアナはしばしポカンとその後ろ姿を見つめていたが、すぐに我に返り、ホメロスの容態を確かめた。口元に手をかざすと、微かに呼気が感じ取れる。意識がないだけのようで、思わずホッと息を吐くが、しかしここは雪原の真っ只中だ。今いる場所も分からないのに、意識を失った男性と共に取り残され、ダイアナはどうすれば良いか分からない。
しばらく雪の間に埋まっていたせいで、ずっとこのままでは凍傷になるかもしれない。ビバークか、せめて暖を取れる場所があれば良いのだが……。
キメラのつばさが入ったポーチも、おそらく雪崩の時に無くしてしまったようだ。
「寒い……」
この吹雪の中、当てもなく歩いても更に迷子になるだけだ。途方に暮れていると、吹雪の中から突然ぬっと何かが現れた。ダイアナは腰を抜かしかけたが、すぐにその正体がルバンカだと気付いた。
「あ、あなた――って、きゃっ!」
突然襲いかかられ、ダイアナは慌てて身を翻した。随分気性の荒いルバンカだ。やる気満々なようなので、ダイアナも弓を構えた。
一人で戦うのは本当に久しぶりだ。だが、ダイアナはあの頃よりも強くなった。もえさかるかえんを必死に思いで避け、狙う先は乗り物ではなく操縦席の魔物の方!
容赦なく射られた魔物は驚き戸惑い、慌てて操縦席から飛び出して逃げ出した。ダイアナは呆気にとられて見送る。後に残るは、ポツンと置き去りにされた乗り物。
「……乗れたり、する?」
恐る恐る近づき、見上げるダイアナ。魔物が先ほどまで座っていた場所は、確かに人一人分は入れる空間がある。ずっとこうしていても仕方ないので、ダイアナは意を決してロボットによじ登った。操縦席に座ると、おっかなびっくり操縦桿を動かしてみる。移動や手の動かし方など、なんとなく分かってきたところで、ロボットが持っていた攻撃用の角を地面に置き、ホメロスを抱えてもらった。
吹雪から身を守れるし、ホメロスも抱えることができたしで、出発の準備はこれで整った。傍目から見ればあまり可愛くない光景だが、背に腹はかえられない。魔物に乗るという可能性を見いだしてくれたイレブンに感謝しつつ、ダイアナは意気揚々と操縦桿を握った。
しばらく歩くと、クレイモラン――ではなく、一つの小屋を発見した。ダイアナは慌ててロボットから降りると、戸を叩いた。
「すみません! どなたかいらっしゃいますか?」
反応はない。試しに戸を押してみると、開いてしまった。鍵はかけていないようだ。
ずっと外にいるわけにもいかないので、ダイアナは中に入らせてもらうことにした。ホメロスを引きずるようにして抱え、何とか小屋に入ると、暖炉の前に彼の体を横たえる。
おっかなびっくり、火付け石で火をつけ――何を隠そう、火の灯し方も旅をしてから学んだのだ――しばらくは身体が温まるまで暖炉の前から動かなかった。
手足にじんわり熱が行き渡り、ようやくと人心地つくと、ダイアナは寝苦しそうなホメロスの鎧を外すことにした。留め具を外していき、重たい鎧一式を部屋の隅に寄せておく。
ベッドに毛布もあったので、借りることにしてホメロスに掛けた。室内が暖まれば直に彼も目を覚ますだろう。
手持ち無沙汰になり、小屋の中を見て回っていると、机の上に地図が置かれているのに気付いた。ちょうどクレイモラン地方の地図らしい。現在地もすぐに分かった。
「ここが古代図書館で、ここがクレイモランね……」
ちら、とダイアナはホメロスを見やる。行こうと思えば、ルバンカに乗って城下町へ行くこともできる。皆にも会える。だが、意識のないホメロスのことを放ってはおけない……。
せめて彼の意識が戻るまでここにいた方が良いだろう。そこまで考えて、火のはぜる音で意識を引き戻す。そういえば、薪の量が少なかった。外に木材があったので、取ってこなければ。
まだ外は猛吹雪だが、火を絶やすわけにもいかない。自分に活を入れ、ダイアナはもう一度湿った外套を羽織り、外に出た。
途端に突風に襲われ、ダイアナは慌てて扉を閉めた。寒い寒いと手を擦り合わせながら小屋の裏に回ると、大量の木材が保管されているのが見えた。近くに斧もあったので、覚束ない手つきで薪を割る。
次第に手がかじかんできたので、ダイアナはいくつかの薪を抱えて小屋に逃げ帰った。暖かい室内に入ると、思わず歓喜の声が漏れ出る。
「姫様……?」
と、聞こえてきた声にダイアナはパッと顔を向けた。
「あ! 目を覚ましたのね、良かった!」
ダイアナが戸を閉めると。ホメロスは警戒するように辺りを見渡した。
「ここは……」
「雪原の中に建ってた小屋よ。一晩の間だけお借りしようと思って。体調はどう?」
「敵を助けるなど、よほどお人好しでいらっしゃいますね」
「それはあなたもでしょう」
暖炉の前に膝をつき、ダイアナは火に薪をくべた。
「――あの時は助けてくれてありがとう」
「…………」
薪を入れすぎたようで、部屋が少し煙たくなる。パッパッと気休めに手を振りながら、ダイアナはそっとホメロスを窺い見た。――まだ少し肌が青白く、本調子ではなさそうだ。
キッチンを見てみると、少しのミルクが残っていた。鍋で温め、近くのマグカップを借りてホメロスに差し出す。ただのホットミルクだが、少しは空腹も紛れるだろう。
素直に受け取ったホメロスだが、すぐには口にせず、まじまじとマグカップを見つめた。
「何だか変な気分ですね。姫様に料理をしていただくなんて」
「ただ温めただけじゃない……」
温めただけのものを料理と言われてしまえばダイアナの方が恥ずかしくなってくる。
「もうあの頃の私じゃないわ。今はちゃんと料理だってできるんだから」
「たとえば?」
「し、シチュー、とか?」
勢いで言ってしまったダイアナは、苦し紛れに一品あげる。シチューだけは何とかカミュに及第点をもらっていたのだ。
ホメロスも疑わしい顔つきだったので、ダイアナは早口になった。
「一番得意なのよ。カミュに教えて……もらって……」
そういえば、ベロニカは別として、ダイアナのカミュへの気持ちを見抜いたのはホメロスが初めてだった。あの時のことを思い出してダイアナは少し動揺した。そういえば、どうしてホメロスは恋心に気付いたのだろう? 自分ですら自覚していなかったのに、そんなに分かりやすかったのだろうか?
婚約者という立場だったので、少し後ろめたい思いに駆られる。たとえ王の決めた婚約であっても、ただ恋をしただけであっても、ホメロスを裏切るような形になってしまったのは事実だ。
正面からホメロスを見ることができず、この話題は変えなければとダイアナは口早になる。
「――まだ身体が冷えてるんじゃない? もう少し薪を増やしましょうか?」
「いえ、結構です」
「でも、まだ肌が青白いのに――」
ダイアナはホメロスの手を引いた。だが、思っていたほど冷たくはない。もう人肌の温度にはなっている。それなのにまだ青白いのはなぜ……?
何か不気味に感じられ、ダイアナは一歩退いた。そういえば、と今ようやく思い出す。ダーハルーネで、ヤヒムが見たというもの。ホメロスが魔物と話していたと言っていなかったか――。
その時初めて真正面からホメロスを見た。ダイアナは再び衝撃を受ける。
「あなたの目、赤かった……?」
確か、元は琥珀色ではなかったか。間違ってもこんな、血のように鮮やかな赤ではなかったはずだ。暖炉の火の加減でそう見えるだけだろうか?
「ホメロス、一体……」
思わずと一歩退いたダイアナの腕をホメロスが掴んだ。
「私のことが恐ろしいですか」
「そうじゃ、なくて……」
「では?」
容易には振りほどけない力にダイアナは恐怖を覚えた。目を逸らしながら、他の話題をと頭を回転させる。
「そっ、それよりも、どうして私たちがクレイモランにいるって分かったの?」
「報告を受けたのです。姫様によく似た女性がソルティコでバニー姿になっていたと」
「……!」
まさかあれをデルカダール兵に見られていたとは!
羞恥やら己の迂闊さやらでダイアナは固まった。ホメロスは気にせず続ける。
「ソルティコを訪れたのなら、外海を目指しているのだろうことは想像がつきます。クレイモランを訪れることも。張っていればいずれやってくると算段をつけておりました。――しかしそれでも、まさかとは思いましたがね。あなたのような方がバニーなどと……。随分俗世に毒されたようですね」
「たっ……頼まれたの……」
「誰に?」
「通りすがりのおじいさんよ……。イレブンが頼まれて、それで私たちが引き受けることに」
「はっ、頼まれれば何でもされるのですか?」
「そういうわけじゃ……」
「青髪の男と随分親しげだったと兵が話していましたよ」
「――っ」
「まだあの男のことを好いておられるのですか?」
射貫くようなホメロスの視線に堪えられず、ダイアナは後ずさった。しかしその足がホメロスの鎧を踏み、体勢を崩して倒れそうになった。すんでの所でその身体を支えたのはホメロスだ。掴んでいた腕を引き、腰に手を当て、その身を受け止める。
突然近くなった距離に驚き、ダイアナは固まった。ホメロスの濡れた髪からダイアナの首筋へと水滴が流れ落ちる。その冷たさに彼女は一瞬身体を震わせた。
初めて怖いとダイアナは感じた。ダーハルーネでホメロスに捕まった時は命の危険も恐怖も感じられなかったのに、今は違う。はっきりとホメロスに対して恐怖を感じている。だが、動けない。本能で理解できる。彼が本気になれば、ダイアナは逃げ出すことはおろか、抵抗らしい抵抗すらできないだろう。
赤い瞳に射すくめられ、ダイアナは目を逸らせない。だがしかし、ホメロスはやがて視線を外すとダイアナから身を離した。幾ばくか距離を取り、鬱陶しそうに濡れた頭を振る。
「姫様はあまりに無防備ですね。……見逃すのは今回限りです」
「え……?」
「吹雪ももう止んだことでしょう。私の気が変わらないうちに早く行かれては?」
背を向け、冷たい声でホメロスが言った。ダイアナは扉とホメロスとを見比べ、やがて飛び出すようにして小屋を出た。バクバクと心臓がうるさいくらいに脈打つ。
あれだけ吹雪いていたのに、外はすっかり穏やかな冬景色へと変貌していた。無心で走っていたダイアナはしばらくしてようやくそのことに気付き、同時に小屋にルバンカを置いてきてしまったことにも思い至った。
吹雪が止んだとはいえ、この雪原の中を単身歩くのは危険すぎる。城下町の方向もぼんやりとしか覚えてないのだ。何の目印もない雪景色の中、すぐに方向を見失ってしまうのも容易に想像がつく。
――ルバンカを取りに小屋へ戻った方が良いだろうか?
ダイアナは足を止め、頼りなげに後ろを振り返るも、ホメロスのことを思うと、もう戻れない。今回見逃してくれたことが奇跡に等しいのだ。のこのこ戻ってまた捕まっては笑い話にもならない。
諦めてとぼとぼまた雪原を歩いていると、どこからかのんびりした声が聞こえてきた。
「ほーら、いたわ。あそこ! さっすが私!」
「……リーズレット?」
箒に乗って現れたのは氷の魔女リーズレットだ。
「ちょっとあんた、どうして一人なのよ。ホメロス様はどうしたの?」
「あ……」
咄嗟の答えに窮した時、バッと温かいものがぶつかってきた。お腹に回るこの細い腕は――。
「ダイアナ、心配したのよ!」
ぎゅうっとベロニカに抱きつかれ、ダイアナは目を白黒させた。自分もそうだが、それ以上にベロニカの身体が冷たい。随分長い間自分を探してくれていたようだ。
「ベロニカ……ありがとう」
「ダイアナ、無事で良かった!」
マルティナも駆けてきて妹に怪我がないか確認する。彼女の後ろからも続々と仲間たちが走ってきた。
「ご無事で何よりですわ。途中雪崩を見つけて本当に怖かったです。もしかして巻き込まれたのではないかと……」
「心配かけてごめんなさい」
心身共に冷え切っていたが、仲間に会えた喜びでダイアナの顔にもじんわり笑顔が戻る。
「ダイアナは悪くないわ。悪いのはあんた!」
「ちょっとおチビちゃん。せっかく手伝ってあげたんだからそんな言い方ないでしょ? 手伝って損した~」
「なーにが手伝ってあげたよ! もう少しでダイアナは凍死するか雪崩で圧死するかホメロスに捕まってたかするかもしれなかったのよ!?」
ベロニカの言葉は確かに的を射ている。だが、あまりに生々しい己の行く末にダイアナは苦笑を禁じ得ない。
「それよりも、どうしてリーズレットが協力してくれたの?」
「女王様のおかげよ。お城で女王様が目を覚ました後、リーズレットがダイアナに成り代わってることを教えてくれたの。捜索隊を出してリーズレットはすぐ捕まったんだけど、女王様は許すことにしたの」
「ふん、お人好しな娘よね……。私なんか助けてもなんの意味もないのに」
リーズレットは腕を組んでそっぽを向いた。ダイアナはそっと声をかけた。
「シャール様は、あなたなりの優しさに気付いていたんじゃないかしら。本の中に閉じ込めた後も、何かと話し相手になってくれて。あなたは結局一度も私のことを無視したことはなかったわ」
「それは……」
リーズレットはもごもご口ごもる。
「本の中は退屈だって知ってるから……」
「あなたのことだから、きっとシャール様に対しても同じことをしていたんじゃない? 私も、不思議とあなたのことは敵だとは思えなかったわ」
「そんな甘ちゃんだからシャールもあんたも騙されるのよ……」
リーズレットは向こうは向いたままだが、その先のベロニカはニヤニヤしている。それに気付いたリーズレットは杖をくるりと振り回し、腰を下ろした。
「ダイアナは見つかったんだし、もう私は用なしね? 清々するわ。ようやくおさらばできる」
「リーズレットよ、その前におぬしに聞きたいことがある。なぜクレイモランを氷漬けにしたのか、その理由を教えてくれんか?」
「あの方――ホメロスって言ったかしら? 彼が助けてくれたからよ。私を本の中から出してくれた美しい顔をしたあのお方……」
杖に座り直し、リーズレットはうっとりと言う。
「もう知ってると思うけど、私大昔に図書館にある本に封印されたの。本の中は泣きたくなるほど退屈だったわ。でも三ヶ月前、あのお方が現れ、本の中の私にこう言ったの。本から出してやる代わりに、言うことを聞くようにと……。クレイモランを氷漬けにすれば、英雄と呼ばれる男がやって来る……その男、グレイグを倒せとね」
「まさか――ホメロスがそんな命令を下したって言うの?」
思わずダイアナは尋ねた。リーズレットが嘘を言っている様子はない。だが、にわかには信じがたかった。グレイグとホメロスは、幼少期から共に育ってきた兄弟のような間柄だと聞く。そんなホメロスが、グレイグ殺害を要求するだろうか……?
「話はこれで終わり? もう行くわね」
「もう悪さはしちゃ駄目よ!」
箒に乗って小さくなっていくリーズレットに向かってベロニカが声をかける。リーズレットは背を向けたままヒラヒラと手を振った。
「さて……」
まだ身体の冷たいダイアナにコートを着せ、マルティナは皆に向き直る。
「ブルーオーブもゲットできたことだし、今日はクレイモランに泊まって、明日ゼーランダ山に登ることにしましょう」
「老いた身体に冷えは辛いのう。今日はゆっくりとお風呂に浸かることにするわい」
「全く、ホントゆっくり休める日はいつになることやら……」
雪原を歩き、古代図書館を見て回り、リーズレットと戦ったと思えば、今度はダイアナを探し……。
連日動きっぱなしの一行は、すっかりくたくたになってクレイモランに戻ることとなった。