54:シケスビア雪原

 禁書を携え、ダイアナは足早に城門を潜り抜けた。脇目も振らず、シスケビア雪原へ繋がっている東門へ向かおうとした時、ポンとその肩に手が置かれた。

「きゃっ!」
「ダイアナ? 一人でどこへ行くんだ?」

 恐る恐る振り返ると、そこにはカミュが立っていた。ダイアナは後ずさって距離を取る。

「カミュこそどうしてこんな所に?」
「オレのことはどうでもいいだろ。もしかして図書館に本を収めに? 一人じゃ危険だろ? オレもついて行くぜ」
「違うの。ちょっと気分が悪くて外の空気を吸いに……。だから大丈夫」
「だからって雪原まで行くこたねえだろ。ここで気分転換すればいいだろ?」

 妙に過保護なカミュにダイアナはイライラを抑えきれない。抱えている本が僅かに振動する。

「か……その……リー……よ!」
「ん? 何か言ったか?」
「何も」

 ダイアナは素っ気なく答えた。頭の中は、どうやってこのカミュを振り切るかで一杯だ。

「皆が呼んでいたわ。早く城へ来てって」
「オレが行かなくてもどうにでもなるだろ? 今はそんな気分じゃねえんだ」
「…………」

 ふう、とダイアナはため息をつく。対して腕力もないこの身体では、カミュを力尽くでどうこう、ということも難しいだろう。なら。

 カミュの袖をクイッと、ダイアナは彼を城壁近くまで導いた。

「なんだよ?」

 そして彼の耳元まで伸び上がり、一言。

「ぱふぱふしてあげましょうか?」
「はっ!?」

 カミュは勢いよくダイアナに押し倒された。城壁に後頭部を強かに打ち付け、目を回したのも束の間、ぐっとダイアナとの距離が近くなり、一瞬にして覚醒する。

「なっ――お前何やって――」

 ダイアナがしなだれかかってくるせいでカミュは身動きが取れない。

「兄ちゃんたち、こんな野外でよくやるよ」

 あらくれが呆れながら通り過ぎていく。そう思うなら助けてくれ、とカミュは思わず言いそうになった。男として情けなさ過ぎるので、そんなこと口に出せはしなかったが。

「か……は……れて!」
「じっとしててね……」

 カミュのお腹に跨り、両腕で彼の頭を抱え込んだままダイアナが蠱惑的に微笑む。カミュはいよいよ混乱した。

 つーかこれ、ぱふぱふの体勢じゃねえだろ! いや、本物という意味では正しいかもしれないが、ダイアナの言うぱふぱふの体勢ではなかったはず――。

 カミュの動きが不意に止まった。

「ぱふぱふのこと、誰に聞いたんだ?」
「……えっ?」

 ダイアナは呆れて吹き出した。

「何よ、私のこと子供だと思ってる? ぱふぱふの意味くらい知ってるわ」
「お前、ダイアナじゃないだろ」

 カミュがそう口にした途端、ダイアナは笑みを消した。

「あら、バレちゃった♪」

 カミュは素早く禁書を奪い取った。だが、リーズレットからは焦りは見られない。高らかに笑いながらカミュから身を離す。

「何よ、この子ったらぱふぱふのことも知らなかったわけ? でももう遅いわ」

 カミュと目を合わせ、リーズレットは軽くウインクをした。サキュバスウインクの眠りに当てられ、いつかのようにカミュはまたすやすやと眠りの中へ誘われる。

「おやすみなさい♪」

 禁書を取り戻し、リーズレットは再びシスケビア雪原へ向かった。もう彼女を追い掛ける者は誰もいなかった。


*****



 猛吹雪が吹き荒れるシスケビア雪原。唸るような風に混じりながら、言い争う声が二つ響いていた。

「どうしてカミュにあんなことしたの!?」
「あの男が引き止めるからいけないんじゃない。私は悪くないわ」
「悪い! カミュにあんなはしたないことして――」
「ぱふぱふのこと?」

 ダイアナの姿をしたリーズレットは、吹雪で舞う髪の毛を鬱陶しげにかきあげた。

「あんた、ぱふぱふのことなんだと思ってるの?」
「……マ、マッサージ……」
「……そりゃバレるわよね」
「なにっ!? 違うの? マッサージじゃないの?」
「マッサージでいいわよ、もう」
「リーズレット!」
「もう、うるっさいわねえ。あれくらい男からすれば願ったり叶ったりじゃない。減るもんじゃないし、いいじゃないのよ」
「カミュが幻滅するかもしれないじゃない! もし嫌われたりしたら……」
「…………」

 少しの沈黙の後、リーズレットは端的に問いかけた。

「なーに? あの男のこと好きなの?」
「なっ、ちが、違うわ!」
「なかなかイイ男ではあるわね。私の好みではないけど」
「だから違うわ!」
「何年生きてると思ってるのよ。それくらい分かるわ」
「……! ……!」

 ダイアナはもはや何も言葉が出てこない様子だ。リーズレットは本を持ち替え、美しく微笑んだ。何百年、何千年生きようと、女という生き物は恋バナが好きなものだ。氷の魔女もまた然り。

「でも、それなら悪いことしたわね。ヤキモチ妬いたんでしょ?」
「……っ!」
「安心なさいな。私、単純な男って興味ないのよね」

 リーズレットは高らかに笑い、優しく付け足した。

「一つアドバイスしてあげると、消極的なばかりじゃ男のハートは射止められないわよ。いつの間にかかっ攫われてから泣いてたんじゃ遅いんだから。男は度胸だけど、女も度胸よ」
「…………」
「さてと」

 もう無駄話も終わり、とリーズレットは本を閉じた。再び雪原には吹雪の音のみが響き渡る。

 しばらくリーズレットは本を小脇に携えたまま雪原を歩いていたが、また本からダイアナの声が聞こえてきたので渋々開く。

「……何よ、まだ何か言いたいの?」
「どこへ行くつもりなの? あなたの目的は?」
「さっきあんたに言ったことを私も実行するだけよ」
「……どういうこと?」
「――あなたの婚約者の下に行くの」
「……ホメロス!?」
「あら、ホメロスって言うのね」

 まさかここでホメロスが出てくるとは。それに、なぜダイアナが婚約者であることも知っているのだろう。

「一体何のために?」
「まだわからない?」

 リーズレットはクスクス笑った。

「彼、イイ男じゃない? ちょっと興味あるのよね」
「す、す、好きなの!?」

 ダイアナは盛大に動揺した。まさかホメロスを好きだという人が現れるとは!

「でも、私の姿で会っても意味ないんじゃないの?」
「でも、あの方に頼まれたことを成し遂げられなかったから、今はちょっと合わせる顔がないのよね」
「……女は度胸なんでしょう?」
「生意気な子ね」

 リーズレットは思わず言うが、そこに怒りの色はない。ただ煩わしくはあったようで、パタンと本を閉じた。またダイアナの声は小さくなったが、まだ何か言い足りないのか、本は振動する。リーズレットは渋々開いた。

「もう、少しは静かにしてちょうだい」
「違うの。本当に止めた方がいいって言いたいの」

 ダイアナは淡々と語った。

「私、お父様に嫌われてるの。私はホメロスと結婚した後に殺される予定だったんですって」
「……どういうこと?」
「お父様はホメロスに国を統治してほしかったの。そのために私は邪魔な存在なのよ」
「でも親子でしょ? 誰からそんなこと聞いたのよ」
「ホメロスよ。彼は嘘をつく人じゃないし、お父様ならそうするって私も知ってるから」

 リーズレットは思わず黙する。大国の王女で立派な婚約者もいて、頼もしい仲間もいる。まさに順風満帆に見えたダイアナが父親に殺される予定だったと? にわかには信じがたい話だ。ただ、彼女が嘘をついているようには見えない。

「……だからホメロスと国へ戻るのはおすすめしないわ。どうせ殺されるもの」
「殺される前に逃げればいいじゃない。愛の逃避行ってヤツ?」
「ホメロスと? ホメロスがそこまでするほど私のこと大切にしてるとは思わないわ。彼にとってはお父様が第一なのよ」

 ――そんな風には思えないけど、とリーズレットは初めて彼と会った時のことを思い返す。クレイモランを氷漬けにし、グレイグを殺すよう指示したホメロス。少し躊躇った後、左手の甲にアザを持った勇者とその一行が現れたら一報を入れるよう付け足したのだ。氷漬けにする方が簡単なんだけど、と零せば、仲間の中に婚約者がいるので、連れ戻すつもりだと言われたのだ。

 殺される予定の人物をわざわざ連れ戻そうとするだろうか? 長く生きた魔女の勘で、リーズレットにはホメロスがダイアナのことを悪く思ってはいないだろうことは想像がついた。だからこそ成り代わるという計画を思いついたくらいなのに。

 だが、カミュという男に惚れ込んでいるらしいダイアナは、ホメロスのことよりも、父親のことの方がショックのようだ。ホメロスに同情しつつ、しかしダイアナにも憐憫の情が湧いてくる。

「あんまり気にしないことね。あんたには血の繋がりよりも大事な仲間がいるじゃない」
「……リーズレット」
「あ、もう時間だわ。彼が来たみたい」

 リーズレットは本を閉じ、両腕に抱えた。ちょっと髪を整えた後、神妙な面持ちになる。吹雪の中でホメロスがダイアナ・・・・の姿を捉え、こちらに歩み寄ってくる。

「姫様? なぜこのような所に――」
「ホメロス……」

 恐怖か寒さか、ダイアナはぶるぶる震えていた。彼女にはそのどちらもないはずだが、凄まじい演技力だ。

「私、怖かっ、た……!」

 ふっと倒れ込んだダイアナをホメロスは抱き止めた。だが、その目は警戒するように辺りを探っている。

「悪魔の子はどこです?」

 ダイアナは俯きながらふるふると首を振った。

「氷の魔女がさっき現れて――そのせいで、突然吹雪が激しくなってはぐれたの。あなたに会えてよかった……」

 ホメロスの身体が固くなるのをダイアナは感じた。

「敵の手中にいるというのに悠長ですね」
「あなたは私に危害は加えないって信じてるもの」
「また随分と信用されたものですね」

 ダイアナは微笑みつつ目を瞑った。

「姫様?」

 応答がなくなり、問いかけたが、ダイアナはそれでも返事をしない。氷のように冷たい彼女の身体をホメロスは抱き上げた。

「……どこへ行くの?」

 歩いていると、しばらくしてダイアナから細い声が上がる。

「近くに船を寄せております。この寒さですから、ひとまずはそちらへ。その後で勇者を誘き出せばよろしいでしょう」
「ホ……その……は……の……よ」
「……何かおっしゃいましたか?」
「いいえ、何も」

 ダイアナは答え、さり気なく禁書をローブの下に隠そうとした。だが、目ざとくホメロスはその腕を掴み、本を奪い取った。

「ホメロスったら大胆ね」

 ダイアナは茶化して笑うが、ホメロスは全く意に介さず本を開く。途端に中から怒涛のごとくダイアナ・・・・の声が響く。

「ホメロス! その人は氷の魔女よ! 私がダイアナなの!」
「まあ、よくもそんな嘘が言えるわね。封印の呪文で閉じ込められたからって、今度はそんな戯れ言を吐くの?」
「そっ、それはこっちの台詞だわ……!」
「イレブンたちの安否も分からなくて不安なのに、あなたと言い争ってる暇はないわ」
「……! ……!」

 勢いに飲まれて何も言い返せない本の中のダイアナ。対して、彼女に扮したリーズレットは余裕綽々と本を取り返そうとした。だが、ホメロスは持ち上げてそれを阻止する。

「見え透いた嘘をよくもまあ……」
「……私に向かって言ってるの?」

 まさかという気持ちを込めてリーズレットが聞くと、ホメロスは真っ直ぐ彼女を射抜く。

 ――虚を衝かれると、萎縮し、何も言えなくなって黙り込んでしまう――デルカダール王と対面すると、彼の威圧感と物言いから、いつからかそんな風になってしまう癖がついていたダイアナ。そんな彼女と、ペラペラ余裕たっぷりに言い訳を口にするリーズレットとでは見分けることなど容易だ。

「無論。私を欺こうなどとなんと愚かな」
「あら、ホントにバレちゃったのね」

 仕方なさそうに笑い、リーズレットは呪文を口にした。その瞬間、禁書がまばゆく光り、中からダイアナが飛び出した。

「私……えっ?」

 あれだけ外に出たいと思っていたのに、いざ実現すると困惑する。

 驚きふためいているダイアナを余所に、本来の姿に戻ったリーズレットは空に浮かんだ。

「あーあ、途中までうまくいってると思ってたんだけど。分かったわ、私の負け。私としたことが、成り代わる相手を間違えちゃったかしら」

 大きな杖に腰掛け、リーズレットはホメロスに向かって微笑む。

「入り込む隙もなさそうだし、恩を仇で返したくないしで、今回は諦めることにするわ。お邪魔したわね」

 甲高く笑いながらリーズレットはそのまま空を飛んで行ってしまった。あれだけ粘っていたのに、去り際はすんなりしていて拍子抜けだ。

「…………」

 とはいえ、いざ突然にホメロスと二人きりにさせられると少々気まずい。

 そもそもダイアナは彼から逃げている身だ。この吹雪の中、今更逃げられるとは思っていないが、せめて仲間の前で成り代わりを解いてくれていれば……。

「……助けてくれてありがとう」

 だが、いろんな事情を差し置いてでも、まずは感謝を述べた。お礼を言うのは変かもしれない。しかし、気づいてくれたことは嬉しかった。マルティナでも気づかなかったのに、どうやって見分けたのかは分からないが――。

「ここまでお一人だったということは、誰にも気づいてもらえなかったのですか? お仲間が聞いて呆れますね」

 ダイアナはちょっと傷ついた。魔女を封印したと思った矢先の成り代わりだったので、気づかないのも無理はない。だが、やはり直球は傷つく。

 ――でもカミュは気づいてくれたし、今はそれで充分。

 こっそり自分を慰めていると、ホメロスがダイアナの前に立ち、見下ろした。

「悪魔の子はどこにいるんです?」

 そう簡単に答える訳がない。ダイアナがそっぽを向いていると、ホメロスは勝手に推理を展開する。

「遠目に見ただけですが、クレイモランの氷は全て溶けていたようですね。勇者の仕業だとすると、大方クレイモランですか」

 ジリジリと後退しながらダイアナは逃げる算段を講じていたが、目が泳ぎでもしたか、腕を掴まれた。

「みすみす逃がすとお思いで?」

 ダイアナは抵抗を諦め、ホメロスと向き直った。

「イレブンが悪魔の子だっていう認識は変わらないのね?」
「彼が生まれ落ちたせいで全ての不幸が始まったのです。悪魔の子以外なんだと?」

 どうあってもホメロスとは分かり合えそうにもない。もしかしたらと思ったが、望みはなさそうだ。

 弓の腕が上達したとはいえ、ホメロスに勝てる見込みは欠片もない。とはいえ、降伏するつもりはないので、せめてもの抵抗と頑なな態度を取っていると、何を勘違いしたか、ホメロスは手の力を緩めた。

「もしや、国に戻ったら王に殺されるとお思いで?」
「え?」
「ダーハルーネでお話ししたことは事実です。ですが、私が進言すればお命は助かるでしょう。以前と同じように暮らせるのです」
「……はっ」

 見当違いにもほどがある。

 思わず笑ってしまって、しかしその後で不意に目頭が熱くなった。鼻にツンとくるものがあり、ダイアナは背を向けた。

「あなたの頼みは聞き入れてもらえるのね」

 娘を殺そうとする王だが、ホメロスが頼めば命を助けてもらえるのだという。一体どれだけの信頼があればそんなことができるのだろう。用済みになればすぐに殺されるダイアナには到底できないことだろう。実の娘なのに、どうしてこうも違うのだろう――。

「姫様――」
「お願い、もうそれ以上何も言わないで。惨めだわ……」

 涙すら見られたくない。

 完全に背を向けたダイアナに対し、ホメロスは珍しく狼狽え、しばし黙った。だからこそか、どこからか振動が響いてくることにいち早く察した。

 ホメロスが振り返ると、崖の上でラッコアーミーの群れがを押し寄せているのが見えた。縄張りを変えるつもりなのか。しかし場所が悪い。ドシドシと遠慮なく踏み荒らした雪面はやがて崩れ落ち、雪崩となって二人の元へと向かう。

 その頃にはダイアナもようやく異変に気付き、押し寄せてくる雪の塊を茫然と見つめた。しかしあまりに突然の出来事に驚き、戸惑い、その足は思うように動かない。今すぐここから逃げなければならないのに、氷漬けになったかのようにその場から動けない。

「何をしているんです!」

 ホメロスに腕を掴まれ、ようやくと走り始める。だが、その時には、急斜面で勢いを増した雪崩がすぐそこまで迫っていた。あっという間に二人は雪崩に巻き込まれ、視界が暗転した。