41:しじまヶ浜
キナイと話してきたというイレブン、ベロニカ、マルティナの三人は、暗い顔で船の甲板に立って待っていた。
話を聞いてみるに、キナイの母親が紙芝居をして聞かせていた物語――あれが事実だったというのだ。村一番の漁師と言われた男が人魚に魂を食われ、人が変わってしまったという話。許嫁を捨て、人魚と結婚しようとした漁師は村長の怒りに触れ、村外れのしじまヶ浜に幽閉された……この漁師こそがキナイ・ユキというロミアの待ち人で、しかし既にこの世にはいないのだという。イレブンたちに話して聞かせてくれたのはキナイ・ユキの孫のキナイ。キナイ自身も祖父と血が繋がっているかどうかは怪しく、キナイ・ユキが海辺で拾ったずぶ濡れの赤ん坊がキナイの母親だったというのだ。
「人魚はわしら人間とは寿命が違うのじゃな……。五十年もの時を、ロミアはあの入り江で待ち続けておったのか……」
「ロミアはキナイ・ユキが来るって信じてずっと待っているのよ。キナイ・ユキが死んでるって知ったらロミアはどうするのかしら……」
キナイ・ユキは死の床で、ロミアに渡したかったのだろうベールを握りしめていたらしい。繊細なレースが施された純白のベール。ロミアに渡してくれとキナイに頼まれたというのもあるが、キナイ・ユキの無念を届けるためにも、これは必ずロミアに渡さなければならない。だが、その時に何を言えばいいのか。
キナイ・ユキは死んだと伝えるのか、いずれやって来ると嘘をつくのか。
どちらにしても、ロミアにとって酷であることは間違いない。
「ロミアに真実を話すのは、あたしは少し不安だわ。あの子はキナイを待っていたのよ。それでたどり着いた答えがこんなのって、あんまりじゃない……」
「でも、もし私がロミア様なら、キナイ・ユキ様がなぜ来ないのか、本当のことを知りたいですわ。どんなことでも大切な人のことを知りたいと思うのはおかしいでしょうか?」
「でも、無理に真実を話すことはないと思うの。恋をしている者は何でもできる。だからこそ何が起きてもおかしくないの。恋心は時に大砲よりも危険なのよ」
ベロニカ、セーニャ、シルビアが真剣な表情で討論する。真実を伝えるべきか否か。八人は今大きな決断の時を迎えていた。
「あんたはどうなの?」
腕を組み、難しそうな顔で輪の中に入らないカミュにベロニカが尋ねる。カミュは渋々口を開いた。
「……オレは真実を話す。嘘ついたってキナイ・ユキは喜ばねえと思うからな。自分のせいで大切な奴をいつまでも独りぼっちにさせるなんて……オレなら自分を許せねえよ」
そして腕を解いて歩き始めた。すれ違い様、イレブンに声をかけていく。
「イレブン、ロミアに何を伝えるかはお前に任せるぜ」
一人になりたい気分だったのだろうか。やけに暗い表情だったのが気にかかるが、しかしそれはここにいる皆も同じことだ。
ロミアを想いながら亡くなったキナイ。キナイを健気にずっと待ち続けるロミア。二人のことを思うと、ダイアナとて胸が苦しくなってくる。
白熱する議論を横目にダイアナは一人離れた。
甲板に立ち、夜風に当たりながら物思いに沈む。ふと誰かが隣に立ったのに気付き、顔を上げた。
「イレブン……」
彼も目を伏せ、じっと暗い水底を見つめている。ダイアナはまた前を向き、重い口を開いた。
「私――私は、ロミアに真実を話すべきだと思うわ。何も知らないで一人で待ち続けるのは、孤独で苦しいことよ……」
いつか父も愛してくれるようになると、そう信じて待ち続けたダイアナはとても孤独だった。ひどく辛い思いも何度もした。きっと、いつかきっとという一縷の望みがあったからこそ辛い思いをしていたのだ。いっそのこと、彼がダイアナを嫌っているのだと確信できたらもっと早く楽になれただろうに。婚約の真実を知って以降、立ち直るのは並大抵のことではなかったが、それでも今は少し吹っ切れている。
ロミアもダイアナのようになれるとは思っていない。彼女の愛する人はこの世にもういないのだから。その絶望はダイアナの比ではないだろう。だが、少なくともキナイの最期の想いは受け取ることができる。しじまヶ浜に幽閉され、入り江へ行くことができなくとも、最期までロミアのことを愛していたのだと……。
「あなたに決断を委ねることになってごめんなさい。でも、イレブンがどういう判断をしようと、それは私たち皆も背負うものよ。どうか重荷に思わないでね……」
イレブンは何も言わず、ただ頷いた。
白の入り江に降り立つと、ロミアは変わらず岩の上で待ち続けていた。不安そうに、しかし思いを込めて何かの唄を歌っている。
イレブンたちが近づいてくるのを見ると、ロミアは歌うのを止め、パッと笑顔を浮かべた。
「お帰りなさい! 随分とお戻りが遅いから、私、とっても心配していましたわ! もしかして何かあったんじゃないかって不安で祈りの唄をずっと歌っていたの」
「ロミア……」
「それで、どうだったかしら。キナイは元気でしたか? 私を……私を迎えに来てくれる?」
ロミアが期待を込めて見つめてくる。苦しそうな表情でマルティナが目を逸らす中、イレブンが進み出てロミアに真実を告げた。
「……キナイが死んだ……?」
ロミアは細い声で尋ねる。誰か嘘だと言って、と八人を順に見渡すが、誰も何も言わない。ロミアは胸の前で両手を組んだ。
「イレブンさん、何を言ってるの? 嫌よ……そんなことってないわ」
イレブンが持っていたベールにロミアは目を留めた。
「……それは?」
イレブンはロミアに約束のベールを渡した。ベールに纏わる真実を聞き、ロミアは更に動揺する。
「……えっ? あの人が……キナイがこのベールを握って死んでいった……? 嘘よ! だって……だってあの人は必ず迎えに来るって約束してくれたもの!」
あまりに悲痛な叫びだ。だが、誰も彼女の苦しみを癒やすことなどできず、ただただ黙っている。
ロミアは胸の前でベールを握りしめながら言った。
「ごめんなさい、イレブンさん。私は彼の死をこの目で確かめるまでとても……信じられない……。あなたが会ったというキナイに会わせてください。私を……ナギムナー村に連れて行って!」
「ロミア、でも……」
「お願いよ。最後のお願い……。そうでないと私、どうにかなってしまいそう……」
ロミアの切なる想いに首を振ることなどできなかった。イレブンたちはロミアを連れ、しじまヶ浜まで移動した。岩場に隠れて待つロミアと別れ、キナイの家へ向かう。もう夜遅かったが、キナイはまだ起きていた。しじまヶ浜に一緒に来てほしいことを伝えると、訝しがりながらもついてきてくれた。
「こんな所に連れてきて、一体何だってんだ?」
人目を憚るようにやって来たしじまヶ浜は、静かに波が押し寄せるのみだ。キナイが辺りを見渡す中、岩陰からそっとロミアが顔を出した。
「キナイ……? キナイなの?」
「ああ、俺がキナイだが?」
満月を覆い隠していた雲が晴れ、辺りに月の光が降りそそぐ。岩の上に上がったロミアの姿が浮かび上がった。
「そ、そんな……人魚? 本物なのか……?」
動揺するキナイを目にし、ロミアは目を伏せた。
「あなた、キナイじゃないのね……」
「あんたが探してるのは俺の祖父だ。あの人はもういない……。ここで……死んだ」
キナイが黙って指さした先。そこには一つの墓石がポツンと建てられていた。
「――っ!」
ロミアは息を呑み、思わず墓石に近づく。だが、砂浜が邪魔をしてそれ以上進めない。
「キナイはこんな寂しい所で……独りぼっちで死んでいった……。人魚は五百年の時を生きる。人間の一生は私たち人魚にとって一瞬であることを忘れていたわ。……あれからそんなにも時が過ぎていたのね……」
ロミアは顔を上げると、イレブンを真っ直ぐ見つめた。まるで最後の力を振り絞ったかのような微笑みだった。
「最後まで私の我が儘に付き合ってくださって本当にありがとう。お礼の品は白の入り江に置いてきました。直接渡せなくてごめんなさいね。――私、もう行くわ……」
小さく呟くと、ロミアはベールを頭に被った。そして悲しげな人魚の唄を歌う。
繊細なベールを被ったロミアはそれはそれは美しい花嫁のようだった。だが、その隣に花婿はいない……。この先も、永遠に現れない……。
唄に呼応するかのように、ロミアの尾ひれがキラキラ光り出した。そうして見る間に人間の脚へと変貌していく。
ロミアは立ち上がり、よたよたと覚束ない足取りで墓石に近づいた。そしてその前で跪き、唇を寄せる。
「……ずっと、待っていたわ」
口づけをすると、ロミアはまた立ち上がり、海へ戻ろうとした。だが、よろめき、転びかけた彼女の腕をキナイが掴む。ロミアは初めてキナイを真っ直ぐ見た。
「……手は同じなのね。キナイと同じ……」
キナイが何も言えないまま、ロミアは手を離し、海に足を踏み入れた。
「陸に上がった人魚は泡となり……消える。それが人魚の掟。最後にキナイと会えて良かった……。もし私が人間だったなら、キナイと共に生きられたのかしら」
満月を見上げたロミアはまた海を見つめる。
「さようなら……」
歩き出したロミアに向かって、キナイは思わずと手を伸ばす。だが、引き留めることはできなかった。そのままロミアが膝まで海に浸かるのを見つめ続け、そうして彼女は力尽きたように海に倒れ込んだ。
ロミアの身体はそのまま海へ沈み込む。大粒の泡だけが浮上するばかりで、しかし彼女が上がってくることは二度となかった。ベールだけが寂しく海面に浮いている。
しばらくは誰もそこから動けなかった。もう少ししたら、あそこからまたロミアが顔を出してくれるのではないか。そう思えてしまうほどには静かで穏やかな水面だった。
「あの姿、どこかで見たことがある……。あれは確か――祖父の小屋に……!」
やがて、そう呟き、身じろぎしたのはキナイだった。ハッとして小屋へ続く階段を上がっていく。
「キナイのあの様子は只事じゃないわ。何か思うところがあるんじゃないかしら……」
人一倍ロミアに肩入れしていたマルティナがキナイの後を追った。イレブンも全てを見届けるべく彼女に続く。
また海へと視線を戻すと、ベールは更に沖を漂っていた。持ち主のいないベールがただゆらり、ゆらりと波に揺られている様を見ているとやるせない思いに駆られる。
「……行ってしまったのね、ロミア」
シルビアの言葉に現実がのしかかってくる。誰に言うでもなく、カミュが小さく呟く。
「……だから人の色恋に首を突っ込むのは嫌だって……言ったんだ」
ダイアナ自身も、ロミアに真実を告げるべきだとイレブンに進言した。それがまさかこんな結末になろうとは……。
皆が何も言えないままただその場に立ち尽くしていると、やがてイレブンとマルティナが戻ってきた。ダイアナは二人に近づく。
「お姉様……」
「あの小屋には――キナイ・ユキが暮らした家に、絵画が遺されていたわ。ベールを被って美しく微笑むロミア……。彼女に恋い焦がれるあまり生前に描いたものなんでしょうね、ロミアにそっくりだったわ。思いの籠もった、とても美しい絵……」
しばし思いを馳せていたマルティナは、再び皆に向き直った。
「一緒に手紙も遺されていたの」
それは、キナイ・ユキが拾ったという赤ん坊についての真実だった。
キナイ・ユキの許嫁だった女性――ダナトラは別の男と結婚し、子供を授かっていたが、ある日漁船が大嵐に巻き込まれ、ダナトラの父親と夫が亡くなってしまった。その数日後、しじまヶ浜の崖の上で赤ん坊を抱いて立っているダナトラをキナイ・ユキが見つけたのだという。ダナトラは生きる希望を失っており、彼の目の前で海に飛び込んだ……。キナイ・ユキは二人とも助けようとしたが、救えたのは赤ん坊だけだったのだ。
――この子には俺が必要だ。俺だけ幸せになるなんてできない……。
そう決心し、いつかロミアに会いに行く夢を諦めたのだという。人魚の呪いの言い伝えは、キナイ・ユキ自身が、己のように愚かな人間が二度と出ることのないよう戒めとして村に残したものだったのだ。
……君を愛している。
そう締め括り、手紙は終わっていた。甲板を撫でる夜風が冷たい。セーニャがふっと息を吐いた。
「私には、キナイ・ユキ様が選んだ道を間違っていとは言えません。……けれど、やっぱり胸が痛いですわ。二人が共に生きる道は他になかったのでしょうか……」
「それでも、ロミアとキナイ・ユキの別れが無駄になるとは思わないわ。キナイちゃんが真実を知ったことでこの村に残る悪しき人魚の伝承は少しずつ正されていくんじゃないかしら」
「――そういや、白の入り江にお礼の品があるんだってな。後悔していたって仕方がねえ。ちゃんと受け取ってこそロミアも浮かばれると思うぜ」
波も穏やかで静かな白の入り江。初めてこの地に降り立ったときもそう感じていたが、ロミアがこの入り江で待つことはもうないのだと思うと、一層もの寂しく感じられる。
入り江を進むと、ロミアがいつも座っていた場所に不思議な色合いのハープが置かれていた。マルティナがそのすぐ側の手紙に気づき、読み上げる。
「イレブンさんへ――キナイの次に優しい人。ソルッチャ運河を抜け、内海の中心にそびえる光の柱でハープを使ってください。不思議な形の岩場がその目印になりますわ。『海底王国に着いたら私は幸せだと女王様によろしくお伝えください』」
幸せ――ロミアの幸せは、まさしくキナイと共に海底王国で暮らすことだったはずだ。それがどうしてこんなことに。
俯くイレブンに誰も言葉をかけられない中、カミュが歩み寄った。
「ロミアは、白の入り江にお礼の品をわざわざ残したんだろ。……あいつの中では、キナイに会いに行くって言ったとき、何をするかもう決まってたんだ。だからイレブン、真実を話したことを悔いる必要はない。オレはそう思うぜ」
ロミアの最期に胸を痛めていたのは皆同じこと。しかし、その最たるは紛れもなくロミアに直接真実を告げたイレブンだろう。彼はお人好しで、頼まれたら断れず、何でも受け入れる心優しい青年だ。その彼が、ロミアの死に責任を感じないわけがなかった。カミュのその言葉はどれだけイレブンの心を軽くしただろう。
ロウもそのことに気づき、孫の肩に手を置く。
「イレブン、過ぎたことを悔やむのは誰にでもできることじゃ。たとえ悲しみを目の当たりにしても、前へ、前へと進み続ける。これが勇者の使命なのだとわしは思うぞ」
マルティナが黙ってイレブンに手紙を渡した。イレブンはそれを大切そうに鞄にしまい、先陣を切って船へと向かう。彼が何も言わないのはいつものこと。だが、その心中は察するに余りある。
彼の後に続き、一行も歩みを進める中、ダイアナの隣にマルティナが肩を並べた。
「今さら何を言っても遅いけれど……私はロミアに生きていてほしかった。生きることは大切なものを失うことよ。でも、それでも生きていたら。いつの日か、また大切なものに出会える――」
マルティナはダイアナを見て微笑んだ。
「私はそう信じているから……」
「お姉様……」
それはダイアナとて同じこと。これまで死が選択肢に入ってくることはなかったが、それでも生きていて良かったと思えることはごまんとある。
「――私も……私も、そう思います」
「行きましょう、海底王国へ」
憂いを帯びた顔は鳴りを潜め、次の瞬間にはマルティナはいつもの凛とした表情へ戻した。
「ロミアのことを女王様にお伝えしなければ」