37:白の入り江

 翌朝、南から回って船でソルッチャ運河までやって来ると、頑丈に閉鎖されていた水門が徐々に降りていく。

「おお、見ろ! セザール殿じゃ! 皆で礼を言うとしよう!」

 領主の館からにこやかに手を振るセザールに、皆も大きく手を振る。そんな中、なぜか一人だけ慌てた様子でカミュの後ろに隠れるシルビア。セザールも訝しげだ。

「シルビアさん、どうしたの?」
「と、鳥が飛んでたのよ~! ほら、アタシって鳥嫌いじゃない?」
「そんなこと初めて知ったわ」
「とにかく! これでようやく外海へ出て行けるわね! アリスちゃんと船の運転代わって来ようっと~」

 セザールの姿が見えなくなってようやくカミュから離れたシルビア。わざとらしく鼻歌を歌いながら階段を上っていく。相変わらずよく分からない旅芸人である。

「さあて、また長い航海が始まるのね。あたし、慣れるまでしばらく船室にこもってるわ。また船酔いしても困るもの」
「お姉様、私も付き合いますわ」

 仲良く船内へ向かうラムダ姉妹を目だけで追った後、カミュはダイアナに顔を向ける。

「お前は行かなくていいのか?」
「え、ええ……そうするわ」
「…………」

 声をかけられた途端、急に落ち着かない様子になり、しまいにはササーッと船内へ逃げ込むダイアナ。ロウはしたり顔でポンとカミュの肩を叩いた。

「ダイアナに嫌われたのう」
「誰のせいだと思って!」
「わしのせいにするのか!?」
「ったり前だろ!? じいさんのせいでオレがバニー好きだって誤解されたんじゃねえか!」
「違うのか?」
「違うって言ってんだろ!」

 カミュの剣幕にもロウはどこ吹く風だ。だが、一応申し訳ない気持ちはあるらしい。ロウはカミュの背をポンポンと叩いた。

「すまんのう。お詫びと言ってはなんじゃが、おぬしに良いものを貸そう」
「良いもの?」
「先にイレブンに渡そうと思ったのじゃが、なんじゃ、おぬしには悪いことをしてしまったからのう」

 妙にロウの機嫌が良いと逆に不安になってくるのは気のせいではあるまい。カミュはついて行くか迷ったが、そうしている間にもロウは自分の部屋へ引っ込む。仕方なしに後を追うほかなかった。

 船室では、ロウは戸棚をゴソゴソ漁っていた。さすがは元国王。読書家らしく、いろんな種類の本がある――とカミュが感心したのも束の間、彼が差し出してきたものを見て目が点になった。

「……なんだこれは」
「なんと! とぼけるではない。おぬしなら知っておるじゃろう? ムフフ本じゃ!」
「見りゃ分かる! が! なんでこれをオレに渡すんだ!?」
「そりゃあ、お前さんもたまにはこういうのを見たいと思って」
「余計なお世話だ!」

 ムフフ本を押しつけてくるロウに対し、カミュは頑として受け取ろうとしなかった。

「だいたいじいさん、どこでこんなもの手に入れたんだ? マルティナには何も言われなかったのか?」
「マルティナにはもちろん内緒じゃ。安心せい、今度こそダイアナにも内緒にしよう」
「そういう問題じゃねえ!」

 うだうだやり取りを続けていたカミュたちだが、不意に遠くから女性陣の笑い声が聞こえてきてピタリと口を閉じる。女部屋からの声のようだが、あんまり騒がしくしてこちらに来られても困る。カミュは声を潜めた。

「とにかく! オレはそういうのは興味ねえんだ。余計なお世話だぜ」
「なんと、おぬしそれでも男か……? まあよい。興味がないというのなら、イレブンに渡してやってくれ。イレブンなら興味も出る年頃じゃろうて」
「あいつも興味なさそうだけどな……」

 女よりも素材やレシピブックに目を輝かせそうな相棒。だが、さすがのカミュも断言はできない。このロウを祖父に持つのなら、もしかしたらイレブンもという可能性はある。

「分かったよ……」

 渡すだけなら、とムフフ本を受け取ったカミュ。やはりのう、とロウは満面の笑みで頷いた。イレブンはただの口実で、素直になれないカミュのための提案だったのだが、うまくいったようだ。

 男は総じてムフフ本が好き、というのはロウの中で微動だにしない固定観念だったのだ。

 ポケットに本を忍ばせ、再び甲板に出たカミュはイレブンを探そうとした。だが、ちょうど濃い霧が発生しているようで、すぐ目の前すら見えない有様だった。

「おい、おっさん。大丈夫か? 何にも見えねえけど」
「急に出てきたのよ。んもう! なんなの、この霧! 気味が悪い……全速力で抜けるわよ!」

 言うや否や、シルビアは勢いよく舵を切った。それが功を奏したのか、細く眩しい光が辺りに差し込んだ。

「光じゃ! 霧が晴れるぞ!」

 霧が晴れたのは唐突だった。気がつくと、目の前には入り江が広がっており、大きくせり上がった白い岩がそれを取り囲んでいる。

「ここは一体……」

 その時、ガクンと船が大きく揺れた。皆はよろめき、何とかその場に踏みとどまる。

「岩礁に乗り上げたようね」
「一旦船を下りて様子を見るのが良かろう」

 碇を下ろし、ひとまず浅瀬に降り立った一行。調べて見ると、ゴツゴツした岩と岩の間に乗り上げてしまったようだ。見事に嵌まっているので、少し動かすのすら難しそうに見える。

「あっしの力が及ばねえばかりに……すまねえでがす」

 海図をあちこち見ていたシルビアも重苦しくため息をつく。

「調べて見たけど、この場所のことはどこにも書かれてないわ。こういう訳の分からない場所は早くおさらばしたいけど……」
「シルビア姉さんと何とかして船を動かしてみせるでげすから、ちょっとだけ待ってほしいでがす!」
「人手が必要なら言ってくれよ」

 ひとまずそう言ったカミュだが、さすがにこの大きさの船を人力で動かすことなど不可能に思えた。潮の流れを利用するしかないかもしれない。となると、一体どれだけこの入り江で立ち往生することになるのか。

 悩んでいても埒があかないので、一行はこの小さい入り江を探索することにした。一目で見渡せるこの入り江において、一際目立つのはやはり浅瀬に乗り上げている朽ちた船だろう。

 ダイアナが物珍しげに近づき、その船を眺めていると、ロウが歩いてきた。

「ううむ、興味深い。この船の骨格、船首の構造……。わしの生まれるずーっと前の造りじゃて」
「そんなに昔の……? 船が乗り上げたまま、この入り江から脱出することができずにいたんでしょうか?」
「そうかもしれんな。もしや、ここが噂に聞く神隠しの海域かのう……。まるでこの場所だけ時が止まっておるようじゃ」

 潮の流れは落ち着いているようで、辺りはしんとしている。状況だけ見れば、まずいことこの上ない。実際、少なくとも一隻の船が入り江に取り残されているのだから。だが、不思議と神秘的な何かを感じるのも確かだ。波も立たず、風も吹かず、音もなく――ロウが言うように、この場所だけ時間の流れが停止しているようだ。

「きゃあっ!」

 突然ベロニカ、マルティナの悲鳴が響いた。魔物でも現れたかと皆が集まると、入り江の中央、ぽっかりと空いた海面から一人の女性が顔を出しているのが見えた。

「キナイ、キナイなの?」
「な……なによ。驚かせないでよね!」

 ベロニカが怒ると、女性はしゅんとし、やがて海面から文字通り飛び上がった。呆気にとられるほどの跳躍力だ。だが、驚くのはまだ早い。彼女の下半身――本来ならば二本の脚があるところに、緩やかな曲線を描く大きな尾ひれがあったのだ。ピンク色の尾ひれは光に照らされキラキラ光っている。

「――あなた……まさか人魚っ!?」
「あら、あなたは叫ばないのね……。私を捕まえようとしないし。珍しい人……キナイと一緒ね」

 目を丸くしているイレブンを見て人魚は笑う。いや、イレブンが叫んでるところはオレたちだって見たことないぜとカミュは内心ツッコんだ。

「驚かせてごめんなさい。私はロミア。キナイが来てくれたのかと思って、つい飛び出してしまったの」
「人魚……本当にいらしたんですね。私、おとぎ話の中だけかと思っていました」
「ホントびっくりよね。……と、それはまあ置いといて。キナイって一体誰のこと?」

 ベロニカが皆の疑問を代弁する。ロミアは嬉しそうに笑った。

「キナイはナギムナー村に住む人間の漁師。私はこの入り江で彼を待っているの。……私たち、結婚の約束をしたんです」
「け、結婚!? 人間と人魚が!? そんな話聞いたことないわ」

 ダイアナたちもポカンとして聞き入る。結婚したとして、人間と人魚。睦と海とで、どうやって暮らすというのだろう?

「そうね。私も最初はそんな約束かないっこないと思ってた。私たち人魚には掟があるから……」
「掟?」
「ええ。陸に上がった人魚は再び海に戻る時、泡となり消える。……私たち人魚は、海を離れて生きられない。でも……それを知ったキナイはね、私のために海底で暮らすと言ってくれたの」
「何だか夢みたいなお話。素敵ね……ロミア!」

 マルティナがうっとり両手を合わせた。ロミアは寂しげに微笑んだ。

「でも、キナイが来ないの。一緒に海底王国へ行こうってこの入り江で待ち合わせをしたのに。彼の身に何かあったのかも……。そう考えると夜も眠れなくて……」

 不安げに揺れるロミアの瞳が、不意に意志を持って真っ直ぐにイレブンを見つめた。

「あの! 失礼を承知でお願いがあります! キナイの様子を見てきていただけませんか? 私にできることなら何でもします!」
「人魚の住む海底王国ねえ……」

 シルビアは腕を組んで考え込む。海底、海底――つい最近、海に関することで何か悩んでいたような――。

「そうよ、オーブ!」

 急に思い立ち、ベロニカは叫んだ。皆をぐるりと見渡す。

「海底王国に行けば、海底に沈んだオーブの手がかりが得られるかもしれないわ。ねえ、ロミア。あなたの頼みを聞いてあげるから、何とかしてあたしたちを海底王国に連れて行ってくれない?」
「はい! お安いご用です!」

 ロミアはパッと笑みを浮かべ、快諾した。

「でも、頼んでおいてなんだけど、そんなことできるの? 一体どうやって……」
「人魚に伝わる秘宝があるんです。あなた方の船を海に潜れるようにして差し上げますね」
「そんなことができるのね。人魚って不思議……」
「ね、イレブン。ロミアの頼みを聞いてあげましょう。彼女をこのままにはしておけないし、私たちにとっても悪い話ではないわ」

 マルティナがイレブンに話しかければ、イレブンもうんと頷く。これまでたくさんの人の頼みを聞いてきた彼のことだ、確認するまでのこともなかったようだ。

「ありがとうございます! キナイの住んでいるナギムナー村は、遙か東のホムスビ山地の海岸にあります。地図はお持ちですか? ナギムナー村の場所をお伝えしますね」

 シルビアから地図を受け取り、ロミアが指さした場所は極東だった。ここからだとまた長い航海になるだろうが、もともとオーブの手がかりはないに等しかったのだ。海底王国という僅かな手がかりができた今、ロミアのことを手助けしないわけにはいかない。

「キナイってのはどんな奴なんだ?」
「キナイは、荒波のように男らしく、潮風のように爽やかで、海のように大らかな漁師です! 皆さん、よろしくお願いしますね」

 頬をほんのり染め、ロミアが嬉しそうに言う。「いや」とカミュがツッコむ。

「印象の話じゃなくて見た目だ」
「キナイは、凪のように穏やかな顔立ちをしていて、海のように深い瞳をしているんです」
「……全く役に立たねえ情報だ。恋する乙女ってのも困ったもんだな」

 カミュはそう締め括ったが、幸か不幸か、その乙女の耳には全く入っていないようだった。

 座礁していた船だが、ロミアが不思議な力で船を動かせるようにしてくれたため、無事出航することができた。目指すは遥か東、ナギムナー村だ。

 三回目の航海となるので、皆も船上は慣れたものだ。ベロニカやダイアナももう船酔いすることはなかったし、逆に自由時間をどう暇を潰して過ごすかが問題となってくる。

 イレブンとカミュは、シルビアに船の操縦を教わっていた。操縦できるのがシルビアとアリスだけというのも少々心許ないし、人間よりも数十倍大きい船を操縦するというのは少しばかり男心というやつを擽られたからだ。それも習い終えると、ロウと魚釣りすることもあった。ソルティコでたっぷり食料を買いだめしておいてはいたが、万が一ということもあるし、せっかくなら海の幸を堪能したいという期待もありといったところだ。

 だが、川釣りならまあまだしも、魔物ひしめく外海では魚釣りも一筋縄ではいかない。

「ちょっと誰か手助けしてくれ!」
「どうしたの?」

 カミュの声に駆けつけてみると、魔物との戦闘が始まっているところだった。マーマンダインが四体と、なかなかの強敵が揃っている。

「いつの間にこんなに乗り込まれてたの!?」
「カミュが釣り上げてしまってのう……」
「あっ、じいさん! 言うなって言っただろ!」
「カミュ〜〜!」
「んだよ、釣れちまったもんは仕方ねえだろ!」

 川釣りとは違い、魔物が釣れてしまうのが外界の怖さだろう。大方、餌に魚が食いつき、その魚に魔物が食いついたといったところか。

 突然海の中から引っ張り出され、マーマンダインは非常に気が猛っているように見えた。群れをなしているのが厄介だ。

 油断せずにと身構えていた一行だが、開幕早々のヒャダルコは想定外だった。凄まじい冷気に襲われ一瞬怯んでしまい、行動が遅れる。その間に他のマーマンダインがマホトーンを仕掛け、するどい爪で切り刻んでくる者もいる。セーニャ、ロウがマホトーンを食らったのは痛い。イレブンとダイアナが必死にベホイミを仲間にかけていくが、追いつかない。

 攻撃をいなすのに必死で、マーマンダインが一体こちらの陣営に深く入り込んできたことに気づけなかった。あっと思ったときにはセーニャを狙って爪が振り被られていた。

「セーニャ!」

 既のところでマルティナがカバーに入り、ヤリで攻撃を防いだ。戦闘になるとは思わず、盾を装備していなかったセーニャは心から礼を述べた。

「マルティナ様、ありがとうございます!」
「ふむ、このままでは防戦一方じゃな。マルティナよ、ひとまず一体を行動不能にするのじゃ」
「……はい!」

 ちょっと躊躇って返事をし、マルティナは息を吸い込む。そうしてカッと見を見開いたかと思えば。

「セクシービーム!」

 色っぽく身体をくねらせた後、「バキュン♡」と言って魔物の心臓ハートを撃ち抜いた。マーマンダインはマルティナにすっかり魅了されてしまったようで、攻撃を仕掛けることができない。

「――っ!?」

 呆気にとられ、仲間たちはポカンとマルティナを見る。今の一瞬で何が起こったのか、ちょっとよく分からない。

「ボーッとするでない! マルティナが生み出したこの好機、逃すでないぞ!」

 ロウに一喝され、慌てて皆も戦闘に集中する。マルティナのおかげで一体は行動不能になり、もう一体もイレブン、カミュの猛攻で仕留めた。残り二体となれば、後は落ち着いて戦うのみだ。回復が追いつかなかった後衛組、セーニャとロウ、ベロニカは後ろに控え、残りの五人が息を合わせて攻撃を仕掛ける。一体、また一体と魔物は倒され、残りの一体――未だ魅了されたままのマーマンダインは、マルティナのヒップアタックを食らい、苦しそうにも幸せそうにも見える顔で息絶えた。

「……ふう」

 軽くお尻を払い、マルティナは涼しい顔で戻ってきた。仲間たちはそれを何とも言えない表情で見つめる。

「あの……マルティナさん? さっきのは一体……」
「……私の特技なの」
「ふぉっ、ふぉっ、この様子じゃと、皆はおいろけ技を見るのは初めてかのう?」

 口髭を撫で、ロウはそれはそれは嬉しそうに笑った。

「大人の女子おなごにだけ習得できる特技よ。マルティナにはその才能があるとわしが見込んで学ばせたのじゃ。するとこんなにも我が物にしよったわい」

 うむ、と至極満足そうにロウは頷いた。

「わしの経験上、おそらくマルティナの妹であるダイアナもおいろけ技を使えると思うぞい」

 つられて皆の視線がダイアナに向けられる。ダイアナはぶんぶんと首がもげるほどの勢いで否定の意を示した。もし仮に習得できたとしても、恥ずかしすぎて絶対に使えない。マルティナだからこそ似合うのであって、自分には絶対似合うわけがないとも強く思った。

「私だって、ちょっと皆に引かれるかもと思って今まで使わなかったの。でも使い勝手もいいし……」

 マルティナが恥ずかしそうに言い訳を口にする。ロウと二人で旅をしていた頃は何気なく使っていた特技だが、いざ仲間たちに見られると急に恥ずかしくなってきた。

「で、でも、お姉様、とっても格好良かったわ。セーニャのカバーに入った時なんか!」
「そうですわ! 私、ちょっと惚れてしまいそうになりましたもの」

 マルティナをこのまま恥ずかしがらせておくわけにはいかない。ダイアナとセーニャが必死にフォローすれば、マルティナもちょっと持ち直したようだ。照れくさそうに微笑み「ありがとう」と言う。

「でも、さっきの戦い、少し危なかったわね」

 シルビアが表情を曇らせる。

「マホトーンにかかったら本当に厄介だわ」
「それに、人数が増えてくると、一人一人回復していてもきりがないものね」
「全体回復できる呪文もあるが、わしはまだ修行が足りんようじゃ」
「全体回復ねえ……」

 シルビアは物憂げに首を傾げた後、あっと声を上げた。

「アタシ、それなら心当たりがあるわ。旅をしている間に聞いたことがあるの。旅芸人たるアタシなら習得できるかもって言われてね。こんなに大所帯で旅をする予定もなかったから、その時は話半分で聞いてたんだけど」
「どんな技なの?」
「それは実際に習得できてからのお・た・の・し・み♪ その方が面白そうでしょ〜!」

 ふんふんと鼻歌を歌いながらシルビアはまた船の操縦をしに階段を登っていった。