31:ユグノア城跡

 翌日、闘技場では改めて表彰式が行われた。優勝賞品の虹色の枝は、イレブン、ハンフリー二人に対し贈呈されるはずだったのだが、ハンフリーの提案により、枝を賭けてエキシビションマッチをやることになった。

 力を合わせて優勝を勝ち取った二人の一騎打ちに、観客は当然沸き立つ。だが、エキスに頼らず己の力だけで勝負を挑むハンフリーの攻撃は、決して強いとは言えない。本来あるべきチャンピオンの強さとはほど遠い。

「ハンフリー……何だか弱くないか?」
「一体どうしちまったんだろう」

 呆気なくイレブンに軍配が上がり、観客たちがざわつくのも束の間。誰かが不意に叫んだ。

「……ハンフリー! 格好良かったぞ!」

 それに釣られるよう、あちらこちらから声が上がる。

「ハンフリー! 今まで良い試合を見せてくれてありがとな!」
「あんたは立派なチャンピオンだったぜ!」

 ハンフリーコールが鳴り止まない中、ハンフリーはじわりと涙を浮かべ、そのまま闘技場を後にした。ステージに残ったのはイレブンのみ。新チャンピオンが誕生した瞬間だった。

 これでようやく虹色の枝が手に入る……と思われたところで、またしても思わぬ事態が発生した。慌てて乱入してきた闘技場関係者によると、虹色の枝が盗まれ、そしてそこにはイレブン宛の手紙が残されていたらしい。

 イレブンの横から手紙を盗み見た司会者は声を張り上げる。

「な……なんと! 最後に思わぬ大波乱! 優勝賞品の虹色の枝がロウ選手によって盗まれてしまいました! 果たしてイレブンさんは、ユグノア城跡で虹色の枝を取り返すことができるのでしょうか!」
「あの司会……ちょっと楽しんでねえか」

 カミュは呆れて呟く。ベロニカも地団駄を踏んだ。

「そうよ! 元は自分たちの不手際でしょ!? なあにが『取り返すことができるのでしょうか!』よ! あんたたちが取り返しなさいよ〜!」

 そんな二人を横目に、シルビアは物憂げに呟いた。

「ユグノア……それってイレブンちゃんの故郷なんじゃ……」

 ハッとして皆が顔を上げる。そうだ、今は某国となったユグノア王国。その跡地がグロッタの南西にはあるのだ。勇者の生まれ故郷……果たしてこれは偶然なのか。

「とにかく、行ってみるっきゃねえな」

 そうして受付ロビーにてイレブンのことを待っていたが、彼はなかなか現れない。痺れを切らしかけたところで、エレベーターのある東からではなく西からやって来た。

「おい、イレブン。そんな所で何してたんだよ――って、また頼まれごとをされただあ!? 今は虹色の枝だろ? 他の奴らの頼みを聞いてる暇なんかないぜ」

 カミュに説教され、イレブンは落ち込んでいる。何でも、美肌を目指す闘士にスキンケアに必要なヌルットアロエを取ってきてほしいと頼まれたらしい。ユグノア地方の大滝の近くに生えているそうだが、闘士なら魔物と戦いながらでも容易にたどり着けそうな距離だが……イレブンが頼まれたというのであれば仕方がない。「カミュちゃんも大変ねえ」とシルビアが他人事のように呟いた。

 気を取り直して、一行はユグノア城跡を目指した。南西にあるという城跡は、グロッタからさほど離れてはいない。だが、南に下り、開けた場所に出た時、目の前に広がる光景はなんとも無残なものだった。住宅街があっただろう場所には苔むした瓦礫のみが広がるばかりで、当時の襲撃の残酷さを物語っている。

「ここがイレブンちゃんの故郷、ユグノア王国ね……。噂では聞いてたけど、ひどい有様……」

 ユグノア城跡は、今もなお朽ちた瓦礫が散らばっており、魔物もあちこちに蔓延っている。かつて世界一の歴史を誇っていた大国がここに存在していたとは到底思えない。

「にしても、あのじいさんと女武闘家はどこにいるんだ? 呼びつけておきながらもったいぶりやがって」
「あっ! 奥の方にかがり火が見えるわ!」

 ベロニカが指さした方には、二つのかがり火が微かに灯って見えた。辺りに人の気配はないが、奧にいるのかもしれない。

「ちょっと行ってみましょうよ!」

 我が物顔で闊歩する魔物を避けて進めば、上へと続くはずの階段は壊れて上れなくなっている。試しに近くにあった井戸を降りると、奥の方まで道は続いているようで、やがてまた上へ上がる縄が垂れていた。あまりに用意周到だ。まるで、行き先はこちらだと示されているような……。あの二人組に、だろうか?

 縄を登った先は、またユグノア城跡に続いていて、やがてそう歩かないうちにロウが佇んでいるのが見えた。

「ふぉっふぉっふぉっ、おぬしらが来るのを待っておったぞ」
「一緒にいた姉ちゃんの姿が見えねえが、じいさん一人だけか?」
「故あって姫には席を外してもらっている。それにしても、よく来てくれたのう」
「さあ、来いと言うから来てやったぜ。奪った虹色の枝を返してもらおうか。オレたちにはあの枝が必要なんだ」
「ふむ……おぬしたちに必要とな。それは、イレブンが勇者であるからかの?」
「じいさん、何者だ!?」

 カミュが身構えた。遅れて仲間たちも臨戦態勢を取る。だが、ロウは悠々と佇んだままだ。あまつさえ穏やかに微笑む始末。

「十六年前に死んだと思っておったぞ。だからグロッタの武闘会で手のアザを見た時は心の臓が止まるかと思ったわい。おぬしにどうしても見せておきたいものがあったんじゃ。少しだけこの老人に付き合ってもらうぞ」

 多くは語らず、ロウはまた歩き出した。ひとまずついて行ってみるか、と彼の歩幅に合わせて六人は進む。

 やがてたどり着いたのは一つの墓の前だ。何もない所にポツンと一つだけ墓石が立っているのは少し奇妙にも思える。

「おじいちゃん、このお墓は?」
「この国の……ユグノアの国王夫妻の墓じゃよ」
「それって、つまりイレブンちゃんの……」

 ハッとしてシルビアがイレブンを見た。イレブンはじっと墓石を見つめている。

「さよう。勇者イレブンの実の両親。すなわち、十六年前に亡くなったわしの娘と婿殿の墓じゃよ」
「……っ!?」
「ということは、あんた、イレブンのじいちゃん……?」

 カミュが皆の疑問を代弁してくれた。ロウは頷く代わりに墓石に手を当てる。

「娘も死に、婿殿も死に……それでもわしだけが生き残ったことには意味があると、そう思わなければあまりにも辛すぎた。だから十六年間、わしは追い求めたのじゃよ。なぜユグノアは滅ぶことになったのか……。その原因を探るのを生きる目的としたのじゃ」

 徐にイレブンが歩き出し、墓の前に立った。そして黙祷を捧げる。仲間たちもそれに倣い、辺りはしんと静まり返る。

「……各地を回り、わしは知ったのじゃ。勇者伝説の信奉者であった盟友デルカダール王の変心をな……」

 ビクリとダイアナが肩を揺らした。ここで父の名が出てくるとは思わなかった。

「デルカダール王の変心……?」
「十六年前のあの日から、デルカダール王はまるで人が変わったかのように勇者を悪魔の子と呼び、非難を始めたんじゃ。あまつさえ、自分の娘の死まで勇者の仕業として世に広める始末。わしには王が正気であるとは思えなかった」

 正気……正気じゃ、ない?

 デルカダール王は、十六年前のあの日、勇者の父親が自分を殺めようとしたのだと説明していた。でも、それが嘘だったとしたら?

 ダイアナは寒気がするのを感じた。父のことが、とてつもなく恐ろしく感じられた。

「裏で何かが起きている……。亡国の真相と盟友の変心……二つの謎を必ずや解き明かしてみせると誓ったのじゃ」

 目に涙を浮かべ、ロウは墓石を撫でた。

「エレノアよ、アーウィンよ……。喜べ、お前たちの息子じゃ。元気に生きておったぞ……」

 墓に縋り付き、ひとしきり涙を流した後、ロウは立ち上がり、イレブンに向き直った。

「よく戻ってきたな、我が孫よ。よくぞ……よくぞ生きていてくれた。こうして十六年ぶりに愛する孫と再会することができたんじゃ。このじいの頼みをきいてくれんかの? ユグノア王家には代々伝えられている鎮魂の儀式があってな。非業の死を遂げたエレノアたちを共に弔ってほしい」

 儀式は、城の裏山にある祭壇で行うようだ。ロウが先頭に立って案内してくれる。ぞろぞろとついて行くイレブンたちだが、どうしてもダイアナの足は動かない。

 怖かった。イシの村だけでなく、ユグノアの滅亡にまでデルカダールが絡んでいたとしたら。

 イレブンやロウに、どんな顔をすればいいか分からない。

「――っ!」

 唐突にドンッと背中を押され、ダイアナはよろけるように前に出た。

「お前はお前だろ。デルカダールとはもう縁を切ったんだってくらいの気持ちで行けよ」
「カミュ……」
「ほら、早く行くぞ。あのノロノロじいさんよりも遅れて到着したらベロニカに笑われちまうぞ」

 思わずくすっと噴き出し、ダイアナは笑みを零した。

「そうね」

 祭壇へは、また少し長い距離を歩かねばならなかった。山の頂上にたどり着いた頃には、もうすっかり夜になっていた。

 祭壇の前では、女武闘家が一人佇んでいる。ロウは彼女に近寄り、声をかけた。

「支度は済ませてくれたようじゃな。ご苦労であった、姫よ」
「お待ちしておりました、ロウ様」

 彼女はイレブン、ダイアナと順に視線を滑らせ、微笑んだ。その笑みを見た時、ダイアナは唐突に理解した。ロウに姫と呼ばれている彼女は……! 気品溢れる佇まいに、腰まで届く真っ直ぐな黒髪は、デルカダール城でも見覚えのあるものだ。今は亡き王妃の寝室。そこに追いやられるようにしまわれた肖像画の中の母もまた、真っ直ぐで綺麗な黒髪をしていた。

 今までなぜ気づかなかったのか不思議なくらいだ。あっと思ってダイアナは駆け寄りかけたが、女武闘家は両手を挙げて皆を下がらせる。

「鎮魂の儀式はユグノア王家のお二人のみで行われるので、こちらにどうぞ」

 祭壇の上には、イレブンとロウが上がった。

「では、イレブン。わしの真似をするのじゃ。よいな?」

 ロウは、たいまつの炎を枝葉に宿した。イレブンもそれに倣い、炎を移す。

 燃え上がった枝葉からは白い煙が立ち上り、上へ上へと上っていく。

「人は死ねばみな命の大樹へと還ってゆく。あの大樹の葉一枚一枚が人の魂と言われておる。されど……魔物によって非業の死を遂げた者は未練を残し、この世を迷うという……。そんな魂を救う儀式がこの地に伝わっておる」

 どこからか、仄かに輝く蝶が飛んできた。一匹のみならず、その数は数え切れないほどだ。

「見よ……煙の香気につられて光り輝く蝶たちがやって来おった。この蝶を人の魂と見立て、命の大樹へと送る。それを以て死者の慰めとするのじゃ。エレノアはただ死んだわけではない。おぬしとデルカダールの王女を救うため自ら囮となったのじゃ。かけがえのない二人の命が救われた……。ありがとうな、エレノア……」

 デルカダールの王女を救うため……。

 じゃあ、やはり彼女は……。

 ちらりと視線を上げると、女武闘家は姿を消していた。どこへ行ったのだろうとキョロキョロしていると、前を向いたままカミュが「坂道を降りていったぜ」と教えてくれた。

 それに頷き、ダイアナもまた岩窟を通り坂道を降りていく。女武闘家の姿はすぐに見つかった。命の大樹を見上げ、一人佇んでいる。

「あ……」

 ダイアナに気付き、彼女はこちらを見た。その視線に戸惑い、ダイアナもその場で足を止める。

「こういう時、なんて言ったらいいか……」

 彼女は困ったように眉を下げ、俯いた。ダイアナは勇気を出して一歩進む。

「……マルティナお姉様……?」

 ハッとして女武闘家は顔を上げた。そしてゆっくり、何度も頷く。

「ダイアナ、よね?」

 今度はダイアナが頷いた。マルティナは不器用に微笑み、近寄ってきた。

「まさか私――グロッタであなたに会えるなんて思ってもみなかった……」
「私も……。お姉様は死んでしまったんだとずっと思ってたから」
「一目見て私、すぐに分かったわ。お母様にそっくりだもの」
「本当……? お姉様の方が、黒髪がそっくりで……」
「いいえ。顔立ちはあなたの方が。笑った顔がそっくりよ」

 マルティナは笑ってダイアナの頬を撫でた。気恥ずかしくなってダイアナは俯く。

「私、あなたはずっとデルカダールにいるものだと思ってたの。だからグロッタで見かけて驚いてしまって」
「……デルカダールは出たの。父と意見が合わなくて」
「ダイアナ、それは――」

 マルティナは何か言いかけた。だが、何かの気配を感じたのか、鋭く叫ぶ。

「誰っ!?」

 恐る恐る坂道を降りてきたのはイレブンだった。マルティナはすぐに警戒を解いた。

「ごめんなさい、ちょっと敏感になってたみたい」

 マルティナは笑い、イレブンをじっと見つめた。

「あなたも、エレノア様にそっくりだわ。優しい面差しと、柔らかな髪……」

 何かもの言いたげにイレブンが口を開いた。ダイアナはハッとして数歩後ろに下がった。

「私……皆の所に戻ってるわね」
「ダイアナ――」
「お姉様、また……」

 ふわりと微笑み、ダイアナは踵を返してまた祭壇への坂を登った。マルティナから話を聞きたいのは自分だけではない。イレブンも、両親のことを聞きたいに違いない――。

 頂上に着くと、祭壇の前でロウが一人佇み、そんな彼を気遣うように仲間たちが少し離れた所で細々と話をしている。ダイアナに気付き、カミュがやって来た。

「やっぱりあの姉ちゃんはお前の……?」
「マルティナお姉様だったわ」
「そうか……」

 言葉を探しているのか、カミュが黙り込む。ダイアナは苦笑した。

「実は、まだちょっと実感が湧かないの。ずっと一人っ子みたいに暮らしてたから。だから、どう接すればいいか分からなくて……」
「……甘えればいいんじゃねえか? 甘えたり――我が儘言ったり?」
「わ、我が儘……」
「あれが欲しいとか、これが欲しいとか。金とかお宝とか何でもさ」

 十六年前ぶりに再会して早々お金をせびる妹はどうだろう……。

 思いきり盗賊の思考になっているカミュにダイアナはくすりと笑った。

「そうね、ちょっと考えてみる」

 甘える……。

 とは言ったものの、自分とは無縁の言葉に、ダイアナは難しい顔で考え込む。

 あの冷たい父に甘えることなど久しくなかったし、堅苦しく生真面目なグレイグに対してもそんな気は全く起こらなかった。幼い頃は怖くも感じていたホメロスはもってのほかだ。

 ただ、城下町を歩いている時に家族連れを目にすることはままあった。そんな時、家族のぬくもりを知らずに育ったダイアナが、一番羨ましく思ったのは――。

「だ……」
「?」
「抱きしめてほしいな、なんて……」

 じわじわと頬に熱を集め、ダイアナは俯いた。小さな男の子を抱きしめる母親――その光景は、優しく、そしてとても温かだった。泣いていた男の子はすぐ泣き止んで、気が付いたら母親の腕の中で笑っていた。それがとても印象的で、また羨ましくもあったのだ。

「……?」

 だがしかし、カミュからの反応がない。そうっと顔を上げると、彼は斜め上の方を見ていた。ダイアナの視線に気付いてもカミュはなおも目を逸らしたままだ。

「それは男にやるやつだろ……?」
「え!? お姉様とハグはおかしい?」
「いや、おかしくはねえけど」

 ちょっと可愛いな、なんて思ってしまったカミュは取り繕うように咳払いをした。

「まあ、いいんじゃねえか。言ってみろよ。あの姉ちゃんもお前のこと気に掛けてたみたいだし、甘えてもらったら嬉しいと思うぞ」
「ええ、やってみる。ありがとう」

 カミュは照れくさそうに向こうを見て軽く頷いた。

 こうしてみると、カミュは良いお兄ちゃんになれそうだとダイアナはふっと思った。少し口うるさい時もあるが、面倒見が良く、兄貴肌のカミュ。ちょっとやんちゃな妹か弟がいればピッタリだ。

 思わず笑い声を漏らしてしまったダイアナは、慌てて口元を抑えた。

「あ――ごめんなさい。一人でちょっと想像しちゃって――」

 不意に口元を手で押さえられ、ダイアナは目を白黒させた。ぐっとカミュの顔が近くなり、心臓が跳ね上がる。

「……!?」
「人の気配がする」

 一瞬にしてダイアナは真剣な表情に戻り、耳を澄ますと、下の方で草を踏みしめる音が微かに聞こえた。

「声が聞こえなかったか?」
「静かに。かがり火が見えたんだ。この辺りにいる可能性は高い」

 カミュと目を合わせ、頷くと、二人は静かに移動した。そして散り散りになっている皆を集め、状況を説明する。

「なんと! こんな所まで追ってきたというのか」
「オレはこのままイレブンたちを呼んでくる」

 そう言って坂を下ろうとしたカミュだが、暗がりから数人の兵が現れたのを見て短剣を構えながら後ずさる。

「ちっ! 囲んでやがったのか」

 兵がボウガンを構え、矢を射ってきた。カミュは飛びすさって避けるが、一斉に攻撃されたらひとたまりもない。

「カミュよ、こっちじゃ。ここから降りられるじゃろう」

 ロウが手を上げ、皆に指し示した。雨も降ってきていたので、ここを下りるのは容易ではないが、しかしゆっくりもしていられない。ジリジリ包囲網が縮まっていく中、彼を先頭に斜面を下り始めた。

「私がしんがりを務めるわ」
「ダイアナ……お前また!」
「大丈夫よ」

 そうして向き直った兵たちは、みな見覚えのある顔ばかりだ。グレイグの兵。共に訓練したこともある顔ぶれ。

「姫様、なぜ……」
「ごめんなさい。でも、私はイレブンが悪魔の子なんかじゃないって信じてるの」
「ですが、ユグノアの悲劇は!」
「悲劇は魔物が引き起こしたことよ。元凶は魔物なのに、なぜイレブンに敵意が向けられるの? おかしいと思わない?」
「ダイアナ、行くぞ」

 皆が半ばまで斜面を下ったのを見計らい、カミュが声をかけた。ダイアナはパッと身を翻し、斜面を降り始めた。しんがりを務めると宣言したにもかかわらず、それを無視してカミュがダイアナの後ろから前に行かないので少し不服だ。だが、どちらにせよデルカダール兵のボウガンを射る手に抵抗があるようなので好都合だ。

 一気に地上へ降り立つと、少し遅れてデルカダール兵も斜面を下ってきているのがたいまつの灯りでよく分かった。その火めがけてベロニカが遠慮なく呪文を唱える。

「イオ!」
「うわあっ!」

 ベロニカの魔法がたちまち兵たちの足下で爆発する。彼らは避けようとして体勢を崩し、そのまま雪崩のように斜面を滑り落ちた。セーニャも容赦なくバギを唱えたので、兵たちは散り散りに吹き飛ばされる。

「今のうちじゃ!」
「女って怖ええ……」
「馬鹿なこと言ってないで、早く行くわよ!」

 ベロニカに叱咤されるまでもなくカミュは走り出していた。追っ手を撒くために灯りは点していないため、声を頼りにロウの後を追うだけで精一杯だ。

「さあ、早くこの中へ!」

 ロウが連れてきたのはボロボロの民家の中の一つだ。瓦礫を退けると地下への階段が現れ、今度はロウを最後尾にして降りていく。

「ここは、わしの古い知り合いの家でのう。酒が趣味で、とうとうこうして家の地下にワインセラーを作ってしまったのじゃ。生前はよくここで語り合ったものよ」

 生前は、ということは、十六年前のあの日、おそらく家主は帰らぬ人となったのだろう。もしくは、消息も分からないまま連絡が途絶えているのか。どちらにせよ、ロウはまたしても大切な人を喪っているのだ。

「お二人は大丈夫でしょうか……」

 埃っぽい地下室の中でセーニャが不安げに呟く。ロウがたいまつに火を点し、壁に立てかけた。

「マルティナは気配に聡い。きっとすぐに気づいてうまく逃げ出していることじゃろう。わしらもここで一晩を明かし、明日の朝、様子を見ながらユグノア城跡へ行ってみるとしよう。もしかしたらマルティナたちも戻っているやもしれぬ」

 ひとまずは追っ手から逃れられたことに安堵し、皆は息を吐いた。ロウは物憂げに階段の方を見上げた。

「追っ手はデルカダールの兵のようじゃの」
「おそらく、グレイグとその兵だと思います」
「グレイグには確かめたいことがあったが、それには及ばぬようじゃな……。ダイアナよ」

 名を呼ばれ、ダイアナは背筋を伸ばした。そうさせる圧がロウの声にはあった。

「マルティナの妹御であり、デルカダール第二王女であるおぬしに聞きたい。ウルノーガ、という名を耳にしたことはあるかの?」
「ウルノーガ……?」

 少し考えてみたが、身に覚えがない。ダイアナは静かに首を振った。

「さようか、おぬしも知らぬか……」
「じいさん、ウルノーガって奴がどうしたんだ?」
「遙か昔、栄華を誇ったとある王国は、魔物が化けた奸臣によって滅ぼされたという。その魔物の名がウルノーガじゃ。今のデルカダール王国には魔物が蔓延っておると見て間違いないじゃろう」
「魔物……」

 茫然とダイアナが呟いた。魔物が関わっているかもしれないなんて考えたこともなかった。確かに、ホメロスは裏で魔物と通じているのではないかという疑惑があった。だが、彼一人ならまだしも、デルカダール王国全体ともなると、背筋が凍る思いだ。

「デルカダール王のあまりの変わりようは、そうでなければ説明がつかぬ。ダイアナよ、何か兆候のようなものはなかったか? 見知らぬ者が城に出入りしたり、王が誰かと内密に話をしたり」
「……玉座の間は基本的に立ち入り禁止で、滅多に入ることができなかったんです。グレイグやホメロスが呼ばれることはありましたが、中でどんな話がされていたのかまでは……」
「デルカダール王は普段どのような様子じゃった?」

 どこからどう話したものか、ダイアナは頭を悩ませた。何せ、父と城で会うこともほとんどなかったのだから。

「君主としては尊敬しています。ですが――」

 一旦言葉を切り、しかしまたダイアナは続けた。

「普段は他人に非常に厳しく、過ちを犯した時の罰があまりに過剰で冷酷です。人嫌いで、あまり他者を寄せ付けません。例外はグレイグとホメロスで、何かあるといつも二人を呼んでいました」
「ふむう。ますます奇怪じゃ。わしのよく知るデルカダール王は、自分には厳しいが、他者には慈愛に満ちたお方で、使用人からは大層慕われておった。まつりごとの合間に訓練場へ顔を出しては、一般兵に混じって訓練をし、更には甘いものには目がないので、時折城下町へ降りてはこっそりとデザートに舌鼓を打っておったものよ」
「父が甘党?」

 あまりに信じられなくて、ダイアナは思考が停止した。あの厳しい父が甘党……。到底信じられない話だ。

「おぬしに対してデルカダール王は?」
「……父は、とても冷たい人でした。直接話したのもほんの数えるくらい。私を産んですぐ母が亡くなったので、きっとそれで私のことを恨んでると思ってたんです」
「それは違うぞい」

 間髪を入れず、ロウはきっぱり言った。 
「確かに、奥方が大樹へ召されてからデルカダール王は随分憔悴しておった……。じゃが、おぬしらがいたからこそ立ち直れたのも事実。おぬしが生まれたばかりの頃は、自分譲りの金髪を何度嬉しそうに自慢しておったか」
「…………」
「あまり落ち込むでないぞ。きっとウルノーガにそそのかされておるのじゃ。正気に戻れば、おそらく……」

 ロウの慰めに、ダイアナは小さく笑みを返すだけに留めた。本当は、もうあまり期待していなかった。これまで何度も裏切られてきたのだ。期待しておかない方が、そうじゃなかった時に傷つかずに済む。

 もう父に振り回されるのは嫌だった。これからは前を向いて歩いて行く。

 私は私――。

 デルカダールの民のことを思うと、国と縁を切ることはまだできない。だが、父とは。

 ――この雨が上がる頃にはもう決別する。

 ダイアナは窓の外に視線を移し、そっと心に決めた。