02:悪魔の子

 温かな朝の日差しが瞼から頬にかけてに差し込み、ダイアナは眩しさに目を覚ました。どうやら、昨夜カーテンを閉めるのを忘れてしまっていたらしい。まだ眠り足りないような気もするが、今朝は大切な予定があるので、少し早いが起きることにした。

 ドレッサーの前に座り、ぼんやりしながら髪をとく。頭に浮かんでくるのは、昨日城下町で聞いた噂話についてだ。

 まだ正式に決まったわけではないのに、デルカダールの智将ホメロスとの婚約話が知れ渡っていて心底驚いた。まだ自分だって実感が湧かないのに、一体どこから漏れたのだろう。

 ホメロスとは二回り近くも離れているが、結婚について抵抗はない。仮にもダイアナは一国の王女で、政略結婚になるだろうことは幼い頃から承知していたし、そこにダイアナの意志が介入する隙はないのだ。

 ただ、ダイアナ自身は、政略結婚するにしても、他国の王子か大臣の息子、もしくはもう一人の将軍、グレイグかもと考えていたので、ホメロスは盲点だった。彼に難があるというわけではない。ただ、グレイグの活躍が目覚ましかったのと、ダイアナの父――デルカダール国王自身がグレイグを重用し、ホメロスは冷遇しているように見えたからだ。とはいえ、最近ではもっぱらホメロスの方が寵愛を受けているような節はあるので、それも考えすぎかもしれないが。

「どうぞ」

 控えめにノックの音がしたので、ダイアナが声をかけると、メイドが入ってきた。

「おはようございます。朝食はどちらで召し上がりますか?」
「ここへ持ってきてもらえる?」

 少し考え、ダイアナはそう答えた。デルカダール城には大勢の国賓をもてなせるだけの広々とした食堂があったが、そんな所で一人で食べることほど寂しいものはない。

 運ばれてきた朝食、そしてグラスを目にし、ダイアナは昨日のことを思い出してふっと笑みをこぼした。

 イレブン――イシという村から来た寡黙な青年。彼とは初めて会ったが、とても良い印象を抱いていた。猫を助けたり本を探し出したり、見ず知らずの人のためにそんなことができる人に悪い感情を抱く方が難しい。イシの村の人々も、きっと皆彼のような気質の人が多いに違いない。イレブンのように物静かで、しかし素直な人たちがぽわぽわ笑い合っているところを想像して、ダイアナはまたクスリと笑った。

 朝食を食べ終えると、身支度を整え、玉座の間へ向かった。今日は婚約について父から話があるという。きっと国民への発表や結婚の日取りについてだろう。

 メイドを伴って歩いていると、道中グレイグと遭遇した。見上げるほどに大きい上背は遠くにいても目立つ。いつものことながら、ダイアナを目にした途端彼は堅苦しく挨拶した。

「今日は兵の訓練をするの?」
「はい。その予定にございます。近頃は魔物が活発化しているという情報も多く、万事に備えるに越したことはありません」
「じゃあ私も顔を出してみようかしら。最近少し鈍ってきたような気がするの」

 弓を引く真似をすると、グレイグはなんとも言えない複雑な表情を浮かべた。

「兵と混じって怪我をされては大変です。ご婚約される身であらせられるのに……」
「私をここまで鍛えたのはどなた? 私が泣いて駄々をこねても訓練をつけようとしてきたのは?」

 王族教育の一環で護身術を学ぶ必要があり、その時ダイアナの師となったのがグレイグだった。始めは剣術を教えてもらったのだが、ちからが伸び悩んだり、毎日傷をこさえる生活が嫌になって泣き言を零せば「万一のことを想定して私は姫様を鍛える責任があります」と言って決して妥協してはくれなかったのだ。結局、ダイアナに剣の才能はなく、その代わりに弓であれば上達していったので、それ以降は真面目に訓練に取り組むようになったのだが。

「それとこれとは話が別では……」
「一緒よ。万一のことを想定するのならもっともっと上達するに越すものはないでしょう?」
「……全く……」

 グレイグは苦笑し、小さく零した。

「似ていないようで似ていらっしゃいますな……」
「……お姉様と?」

 ダイアナが聞き返せば、グレイグはハッとして口を噤んだ。

「余計なことを申しました」
「私は余計なこととは思わないわ」
「……失礼しました」

 頭を下げたものの、グレイグはそれ以降その話題を続けようとはしなかった。真面目であるが故に、彼は未だ後悔と復讐の念に苛まれているのだ。

 黙ったままお互いに窓の外を見ていると、軽く甲冑の音を響かせながら何者かが近づいてきた。

「姫様、ご機嫌麗しゅうございます」

 白い鎧を身に纏った端正な顔立ちの男――ホメロスが頭を垂れた。背中で束ねた長い金髪がさらりと落ちる。

「王様がお呼びです。お迎えに上がりました」
「わざわざありがとう。忘れていたわけではないのよ。少しグレイグと話をしていて」
「承知しております」

 ホメロスが腕を差し出したので、ダイアナはそれに手を添え、グレイグを振り返った。

「今日のところは諦めることにするわね」
「そうしていただけると安心いたします」
「もう……」

 婚約の話が出た途端急に過保護になってしまったグレイグは、きっとこれまでダイアナをまだほんの子供だと思っていたに違いない。万事に備え、ちからのない子供に身を守る術を持たせるために厳しく稽古をしていたグレイグ。ただ、婚約の話が出ると、その子供の性別を突然思い出してしてしまったのだろう。グレイグに感化され、武芸に興味が出てきたダイアナにとっては全く困りものだが。

「何を諦めるとおっしゃっていたのですか?」
「弓の訓練よ。少し訛ってきた気がして」
「それくらいならば私がお教えしますのに」
「そう? じゃあ今度教えていただこうかしら」

 武芸はグレイグ、戦術についてはホメロスと、明確に師が分かれていたために、その発想はなかった。

「そうだわ、この前良いティーバッグが手に入ったの。ホメロスはレモンティーがお好きだって聞いたのだけど」
「誰から聞いたのですか?」
「厨房のメイドから。違うの?」
「いえ、好んでよく飲みはしますが」
「良かった。今度お茶でもいかが?」
「ご一緒させていただいてもよろしいのですか?」
「もちろんよ」

 ホメロスとは、あまり個人的に話したことはない。これを機に親しくなれればと思ってのことだが、断られずにホッとした。

「それにしても、またお城を抜け出されたのですか?」
「久しぶりによ」
「町を見て回りたいのなら、おっしゃればいつでもご一緒させていただきますが」
「物々しく見て回りたいわけじゃないの。一人でゆっくり歩きたいのよ」
「しかし、何かあってからでは……」
「そのために訓練をしてるんでしょう?」

 小言が続きそうな気がして、ダイアナはホメロスの腕を引っ張って気を引いた。

「ほら、もう玉座の間よ。行きましょう」
「姫様……」

 呆れからか、ホメロスは僅かに口元を緩める。彼は普段表情を大きく変えることが少ないので、笑ったところは久しぶりに見るかもしれない。美形であるが故に余計にそのことが近寄りがたさを感じさせるので、もっと笑った方がいいのではといつも思っていた。

 それでも、彼の豊富な知識量と努力に裏付けされた武芸はこの国でも一、二を誇る腕前だ。ホメロスの知略によって救われた民の命も少なくはない。

 デルカダール第一王位継承者として、ダイアナはまだまだ未熟者だ。武芸もさることながら、知識や思考だって。

 だが、ホメロスが支えてくれるのであれば、挫けずにやっていける気がする。彼とは時々壁を感じることもあるが、それは臣下という身のせいもあるだろう。

 今は亡国となってしまったユグノアでは、実際に王女と護衛隊長であるアーウィンが結婚したという。第一王子が生まれて間もなく魔物による襲撃があったせいでその統治は長くはなかったというが、前例があるだけにダイアナも少しは安心だ。

 ――ホメロスとならうまくやっていけるわ。

 己に言い聞かせるようにダイアナは心に呟く。漠然とした不安を吹き飛ばすかのように、何度も何度も。

 玉座の間に入ると、奥にデルカダール王が見えた。門兵と何か話している。

「なに、首飾りを見せたいと申したのか」
「はい。以前王様がおっしゃっていたことを思い出し、念のためにと報告に……」
「手の甲にアザはあったか?」
「アザ……ですか? そう言われてみれば、左手に何か模様のようなものがあったような……」
「その者をここへ通すのだ! くれぐれも丁重にだ!」
「は――はっ! かしこまりました!」

 礼をし、門兵は慌てて玉座の間を飛び出した。王は何か考え込むように黙りこみ、ダイアナたちの存在には気づかない。

 もしかして、もうイレブンが来たのだろうか。

 ダイアナは目を瞬かせる。言われてみれば、イレブンは左手にアザがあったような気がする。詳しく覚えてはいないが、そんな記憶がある。

「国王陛下にご挨拶申し上げます」

 控えめにダイアナが言うと、王はようやく顔を上げた。だが、ダイアナには目もくれずホメロスを見て微笑む。

「ホメロスよ……ついにこの時がやって来たのだ。勇者だ。勇者が現れたのだ」
「ついに、ですか」

 通じ合っているかのように王とホメロスは微笑み合う。温度の感じられない冷たい笑みだ。特に王――父の目が爛々と光っているように見えて、ダイアナの背筋に冷たいものが走った。

「王様、勇者とは……」
「ダイアナよ」

 冷え冷えとした声が響き渡る。ダイアナは父のこの声が、表情が苦手だった。取るに足りないものを見るような、彼にとってダイアナは些末な存在だと言わんばかりの視線。

「これから勇者を出迎える。そなたは部屋に戻っているがいい」
「王様、しかし――」
「出ていくのだ!」
「――っ、は、はい……申し訳ありません」

 大きな声に肩をびくつかせ、ダイアナはしずしず下がった。

「ホメロス、グレイグを呼んでまいれ」
「はっ」

 ダイアナが退室してすぐホメロスも出てきた。父に怒鳴られたことが恥ずかしくて情けなくて、一人になりたい気分だったが、生憎途中まで一本道だ。

「あなたたちはお父様に信頼されてるようで羨ましいわ」

 そのせいでつい強がりのようなものが口から飛び出してくる。これでは余計に惨めだとダイアナは俯く。

「口が滑ってしまったわね。気にしないで」
「……お気持ちは分かります」

 ホメロスはただそれだけ言った。どういう意味だろうとダイアナは少し気にかかったが、問い返すことはしなかった。それだけ疲れていたのだ。

 ホメロスと別れたダイアナだが、王の言葉が気にかかった。

『これから勇者を出迎える』

 ダイアナが教えられた「勇者」という存在は、決して良いものではない。嫌な胸騒ぎがする。

 コツコツと複数の足音がしてダイアナは顔を上げた。二人の兵士に挟まれ、こちらへ歩いてきているのは、紛れもなく昨日出会ったイレブンその人だった。

「イレブン……」

 思わずと呟けば、彼もダイアナの声に気づき、そして目を丸くする。

「ダイアナ?」
「無礼ですぞ。王女様を呼び捨てされるなどと。いくらあなたが王様の客人と言えど――」
「王女様?」

 ますますイレブンが混乱している。ダイアナが説明しようとすると、イレブンの隣の兵士が先を急ぐよう促す。

「王様がお待ちです。王女様、これにて失礼いたします」
「っ――」

 後ろ髪を引かれる様子でイレブンは玉座の間へ向かっていく。それはダイアナも同じだ。

 イレブンが勇者? つまり――今は亡き王国の王子だということだ。 
 かつて、ユグノア王国に誕生した赤子は、手の甲にアザを持っていた。邪神を倒し、かつて世界を救った勇者ローシュの生まれ変わりだというアザ……。

 しかし、魔物の襲撃に遭い、一夜のうちにユグノア王国は滅ぼされ、赤子も行方知れずになっていたが、まさかデルカダール南の村で暮らしていたとは……。

 居てもたってもいられず、ダイアナは彼らの後を追った。だが、もちろん玉座の間を警備する兵に阻まれる。

「王女様、ここは何人も通すなと王様が……」
「その王様に呼ばれているの」
「…………」

 素知らぬ顔で嘘を吐いてみたダイアナだが、先ほど退室させられた経緯が知られているのか、兵の顔は疑り深い。何とか通してもらおうと問答していると、唐突に扉が開いた。兵を引き連れたホメロスが出てきたのだ。

「姫様、こちらで何を?」
「勇者のことが気になって……」
「あのような者を気になさる必要はありませんよ」

 薄く笑ってホメロスは階段を降りていく。

 あんなに兵を引き連れて、一体どこへ行くのだろう。

 胸騒ぎがするも、続いてまた現れた一行に注意を引かれる。

 先頭はグレイグで、その後ろで幾人もの兵に囲まれ、歩いてきたのがイレブンだ。物々しい警護にも見えるが――いや、警備だ。イレブンが逃げ出さないよう、彼らは警備しているのだ。よくよく見れば、兵たちはイレブンに向けて剣で牽制しているではないか。

「これはどういうこと? グレイグ!」
「連れて行け」

 グレイグを残し、兵たちが先を急ぐ――イレブンを連れて。

「イレブンをどこへ連れて行くの?」
「地下牢です。彼は勇者なのです。災いを呼ぶ悪魔の子――姫様も学ばれたでしょう?」
「それは――そうだけど」

 古の時代、ロトゼタシアを救ったとされる勇者だが、彼がいたからこそ邪神が生まれたのだという説がある。勇者と魔王は表裏一体。勇者がいなければ魔王も生まれなかった。勇者こそが邪悪なる魂を復活させる者――それを裏付けるかのように、勇者の生まれ変わりがユグノアにて誕生した時、魔物の襲撃が起こった。かつて栄華を誇ったユグノア王国。それが一夜にして滅んだのは、勇者が生まれ落ちたせいなのだ。

「だからといって、なぜ地下牢に――まさか、殺めはしないでしょう!?」
「姫様……」

 最悪の事態を想定してしまい、思わず声が高くなるダイアナに対し、グレイグはゆっくり向き直った。

「災いの元凶を断ち切らねば、また魔王が現れることでしょう」
「つ――つまり――処刑するってことね?」

 震えながらダイアナは尋ねる。グレイグは黙ったままだが、それが答えのようなものだ。ダイアナはますます拳に力を入れる。

「イレブンは何も悪いことをしていないのに……どうしてそんなこと……」
「姫様は悪魔の子と面識がおありなのですか?」
「昨日、城下町で……」
「また抜け出されたのですか?」
「そんなこと、今はどうだって……今はイレブンが……」
「姫様」

 言い聞かせるようにグレイグは一言一句強調した。

「あのような者と関わってはいけませぬ。ユグノアの悲劇をお忘れですか? あなたの姉君が殺されたのですよ!」
「でも、イレブンが殺したわけではないわ……。魔物のせいじゃない……」
「あの者が生まれたせいで死んでしまったのです! あの一夜で全てが失われてしまった……大勢の命が……。あの者が生まれなければ、ユグノアは今もまだ……」

 何かに耐える表情でグレイグは顔を逸らした。彼の故郷バンデルフォンも、同じく魔物の襲撃によって滅ぼされたと聞く。彼にこの話題は酷かもしれないとも思ったが、ダイアナもこればかりは譲れない。

「でも、イレブンには何の罪もないってことくらい、あなたにも分かるでしょう? イレブンは悪い人ではないわ。真面目で優しい人――生まれただけで罪だなんて、そんなこと命の大樹がお許しになるはずがないわ」
「…………」

 長い沈黙の後、グレイグは張り詰めていた息を吐き出した。そうしてまるで自分に言い聞かせるかのように呟く。

「彼一人の命で大勢が救われるのであれば、命の大樹もお喜びになるでしょう」
「グレイグ……」

 今度こそ振り返らずグレイグは行ってしまった。ダイアナは無力感に苛まれながら、その後ろ姿を見つめていることしかできなかった。