01:デルカダール城下町

 今日の昼食はどこで食べようかしら、とダイアナはデルカダール城下町を練り歩いていた。

 月に一度の外出。

 ずっと計画していたにもかかわらず、今日は抜け出すのに随分時間がかかってしまった。そのせいで、今はもうとうに昼を越している。お腹もそろそろ限界だ。そんな時目についたのが、町の大通りに面している大きな酒場だ。いつも人で賑わっているのは、料理の味にも定評があるから――。

 今日はここに決めた、とダイアナはほくほくと酒場に足を踏み入れた。

 この酒場の名物でもあるきのこハンバーグを頼み、ダイアナは椅子にゆったり背を預ける。昨日は夜遅くまで本を読んでいたので、少し寝不足気味でもあった。

「もうすぐホメロス様も結婚しちゃうのね……」

 ただ、そうしていると周囲の会話を自ずと拾ってしまう。どうやら、二つ隣のテーブルで三人の女性が世間話をしているらしい。あまり聞き耳を立てるのはよくないとは思いながらも、彼女たちが口にする名が知り合いのものだったので、つい固唾を呑んでしまう。

「でも、ホメロス様なのは意外だったわ。私、そういう話が出るのなら、てっきりグレイグ様だと思ってたもの!」
「そうよね、英雄のグレイグ様なら、王様も安心してお預けになると思っていたわ」
「ホメロス様じゃ駄目ってわけじゃないけど、でも、やっぱりこの国の英雄に比べたら、ねえ?」

 デルカダールの有名な二大将軍、グレイグとホメロス。彼らは町の年若い女性たちにとても人気だ。壮年で稼ぎもある男がまだ未婚というのも大きいだろうが、ロトゼタシア中に名を馳せているグレイグと、見目麗しい智将のホメロス。デルカダールの女性であれば、一度は憧れたことがあるのではないか。

「お待たせしました。きのこハンバーグです」

 誇らしい気持ちで聞いていたダイアナは、パッと目を開けた。テーブルに置かれたのは、ほかほかと湯気を上げている大きなハンバーグだ。甘辛い匂いや、ジュウジュウと今もなお鉄板で焼かれている音が非常に食欲をそそる。

 喜び勇んでダイアナはナイフとフォークを手に取った。肉厚なハンバーグにナイフを当て、一口サイズに切る。少し冷まして、ゆっくりハンバーグを口に入れると、その瞬間、あっさりしたバター醤油ときのこの風味が一杯に広がる。噛みしめるたびに肉汁が溢れ、きのこのコリコリとした食感とも相性が抜群だ。

 熱々なので、水を飲む速度も速くなる。そろそろ新しいのを頼もうかしらと考えていた矢先、事は起こった。

「――でも、王女様はホメロス様にぞっこんだって話よね。王女様から結婚を申し出たのかしら?」
「んっ、ゴホッ!」

 ダイアナは咽せた。思わず二つ隣のテーブルを見やるが、あちらはダイアナには全く気づいている様子はない。ダイアナも、なぜそちらを見たのかは分からない。ただ動揺と困惑で心臓がバクバク動いている。

 ダイアナは咳き込みながら水を求めてもう片方の手でテーブルの上を這わせる。が、しかしようやくと手にしたグラスの中身は空。力なくグラスから手を離すしかなかった。

 口を手で押さえながら俯いていると、視界の隅にグラスが映った。驚いて顔を上げると、ダイアナよりも少し年下に見える青年が、並々水が入ったグラスを差し出している。

 頭を下げ、ダイアナは有り難く水を頂戴した。一気に水を煽れば、ようやく異物が喉元を通り過ぎる。ふう、と息を吐くと、青年は微笑んで隣の席へ戻っていくところだった。

「あ――ごめんなさい。助かったわ。ありがとう」

 ダイアナと目が合うと、青年はまた微笑み、ナイフを手に取った。彼も今まさに料理を食べるところだったらしい。

 彼の飲み物を奪ってしまった形になったので、ダイアナは店員を呼び止め、飲み物を二つ注文した。

 そのうちの一つを青年に差し出すと、彼は目を丸くして口を開いた。

「ありがとうございます」

 落ち着いたテノール。今度はダイアナが目を丸くする番だった。あんまり彼が物静かなので、ひょっとしたら話せないのかもと思ってしまっていたからだ。

「こちらこそ」

 席に戻ると、ダイアナは再び食事に戻った。旅人らしい彼のことが少し気にかかったが、無口なようなので、もしかしたら静かに食事を楽しみたい質かもしれないと話しかけるのは止めておいた。

 さすが若い男性と言ったところか、青年はあっという間に食事を終え、酒場を出て行った。とはいえ、ダイアナは悠長にデザートまで頼んでいたので、先を越されるのも当たり前かもしれないが。

 ダイアナが外に出る頃には、外はすっかり夕方にさしかかっていた。変な時間に食事をしてしまったなとも思うが、お腹は満足感で一杯だ。思わずぐーっと伸びをする。気持ちの良い春の風がダイアナの長い金の髪を揺らす。

 ――と、そんな時、視界にあり得ないものが移った。二階建ての屋根の上を歩いている男。よくよく見れば、つい先ほどの青年ではないか!

「な、な、何してるの、あの人!?」

 一人勝手に動揺するダイアナだが、もちろん青年には聞こえていない。彼は、徐に助走をつけると、なんと今度は向かいの屋根に飛び移ったのだ!

「きゃあっ!!」

 見ていられないとダイアナは思わず目を瞑ったが、そうっと瞼を開けると、五体満足のまま立っている青年が視界に映り、ホッと胸をなで下ろす。

 それからも青年は屋根を移動していったが、やがて、ダイアナのすぐ近くの屋根まで来たために、何をしているのかまでは分からなくなった。

「一体何だったの……」

 大人しそうな顔をして随分大胆なことをする人だ。というか、そもそも屋根に登って何がしたかったのか――泥棒?

 失礼な言葉が頭を過ぎる。だが、見ず知らずのダイアナに水を渡してくれた彼は、決して悪い人には見えなかった。そんな風に考えてしまった自分を恥じていると、またひょっこり屋根から青年が身を乗り出した。今度は少し下をキョロキョロすると、上手い具合にベランダや物置を経由して身軽に飛び降りる。彼は手に猫を抱えていた。

「メアリー!」

 ダイアナのすぐ側を女の子が駆けていき、青年の元へ飛んでいった。彼から猫を受け取り、嬉しそうに頬ずりする。

「おにいちゃん、メアリーをたすけてくれてありがとう! これはそのおれいよ。うけとって」

 青年は、どうやらネコずなをもらったらしい。何に使えるんだろうと一瞬考え込んだダイアナだが、彼は嬉しそうに「ありがとう」と延べた。

 青年と女の子は何か関係があったわけでもなく、彼は本当にただ通りすがりの女の子を助けただけだったらしい。

 ふわっと心が温まるのを感じながら、ダイアナは身を翻した。

 これまで、ダイアナは落ち込むことがあると、いつも城下町へやって来て人々と触れ合った。そうすると、不思議と心が安らかになるのだ。特に、先ほどの彼のような人の温かさを感じると、心からこの国の人を守りたいとしみじみ思う。

 さて、と気を取り直したダイアナは、一月振りの休息に羽を伸ばすことにした。図書館へ行ってみたり、町の雑貨店を覗いてみたり。一番のお目当てだったデザート、イチゴのふわふわエンジェルフロマージュは最後に食べに行った。知る人ぞ知る、西の住宅街にひっそり佇む洋菓子店。そこで売られているフロマージュは、イチゴの甘酸っぱさが絶妙で頬が落ちるほどおいしいのだ。

 人がいない時間を狙って行ったので、店を出る頃にはすっかり日が落ちていた。早く帰らなければと大通りを歩いていると、少し先に見覚えのある紫色の旅人服を着た男性が視界に飛び込んでくる。酒場で会ったあの青年だ。

 不思議な縁だわ、と同じ道のりを歩いていると、彼は城前広場に続く階段の側で立っている男性に話しかけた。

「おお! 二人の英雄について書かれた本を見つけたのか! 教えてくれ! 本にはなんて書いてあったんだ? ……ふむふむ……そうか、なるほど。うーむ、これは知っておいて良かったな。二人の英雄がいる限り、王国が安泰だというのも納得できる。いやあ、君のおかげでグレイグ将軍と軍師ホメロスのことがよく分かったよ!」

 男性は嬉しそうに青年の肩を叩き、お礼として何かを渡した。青年はぺこっと頭を下げて階段を上り始める。

「……?」

 いよいよ、ダイアナはあの青年が何者なのか気になってきた。見ず知らずの人の頼みごとを聞いてばかりいる彼。ひょっとして、よろず屋というものだろうか? それにしては、旅人の格好をしているのが気になるが……。

 相変わらず帰り道が同じなので、ダイアナは謎の後ろめたさを感じながらも、彼の後をついて行く。

 城前広場についても、彼はどこへ寄り道するでもなく、真っ直ぐ歩いて行く。この先にはデルカダール城しかないが、しかし今の時間は――。

「何者だ?」

 城の前まで来た青年の前に、当然のように門兵が立ち塞がった。

「王様に用があって来たのか? 王様なら既にお休みになられている」

 小さく頭を下げ、青年は身を翻してまた戻ってきた。その顔にあまり表情の変化は見られない。だが、酒場で見た時よりも明らかに肩が下がっている。見た目には分かりにくいが、よほどがっかりしているらしい。ダイアナは、ついに笑いを堪えられなくなった。

「……?」

 青年はようやくダイアナに気づいたようで、不思議そうに近寄ってきた。笑ってばかりでは気を悪くしてしまうかもしれないとダイアナは頑張って笑いを堪える。

「ご、ごめんなさい……。ただ、意外にも分かりやすいなって思って」

 表情の変化は乏しいし、物静かで無口。一見すると、彼は何を考えているのか分かりづらい。だが、彼をよく見ていれば分かる。何を言わずとも、彼の気質がその行動によく表れていたからだ。

「あなたって、とっても優しいのね」
「えっ?」

 唐突に褒められ、青年はきょとんとしている。またしても笑いが込み上げてきたが、ダイアナはお腹を押さえて何とか持ち直した。

「デルカダール王はいつも早くにお休みになるの。だから明日また出直した方が良いわ」
「あ……ありがとう」
「私、二回もあなたのこと見かけの。猫を助けた時と、将軍について教えてあげているところ。てっきり何でも屋かと思っちゃったわ」
「困ってたから……」

 予想通りの答えが返ってきて、ダイアナはますます笑む。
自分にも予定があるのに、困っている人を見過ごせなかったのだろう。

「あなた、旅人なの? どちらから来たの?」
「南の、イシという村から」
「南――渓谷地帯の?」

 問いかけると、青年はこくりと頷いた。

「まあ、あの辺りに村があったなんて初めて知ったわ」

 デルカダール――いや、このロトゼタシア全体の地図を頭に入れているダイアナだが、そんな彼女でもイシの村については存在すら知らなかった。地図にも載っていない村があることは予想していたが、まさかこんな近くに存在していたとは。

 少々情けなく感じていたが、やがてハッとしてダイアナは顔を上げる。

「あ、引き留めちゃってごめんなさい。明日またお城に来ないとだものね。おやすみなさい」
「おやすみなさい」

 頭を下げると、イレブンは宿屋の方へ歩き始めた。暫く祖の後ろ姿を見守っていたダイアナだが、つい咄嗟に声をかけていた。

「ねえ――あなた、お名前はなんて言うの? 私、ダイアナって言うの」

 青年が振り向いた。サラサラな髪の毛が夜風に揺れ、ちょっとした絵画のようだった。

「僕はイレブン」
「イレブン――あなたに会えて良かったわ。気をつけてね」
「ありがとう」

 微かに微笑むと、イレブンは今度こそ去って行った。彼の姿が見えなくなると、ダイアナは顔を引き締め、城の方へ歩いて行く。

「これは姫様! お戻りでしたか」
「しかし、いつ外へお出掛けに……?」

 片方の門兵が首を傾げるが、ダイアナは微笑むだけで何も言わない。正直に話して国王に報告され、月に一度のお出掛けがなくなってしまっては困りものだからだ。

「それより、さっき男の人が来たでしょう? 紫色の旅人服を着た」
「来ましたが……」
「彼、私の知り合いなの。明日また来たらすぐに王様にお目通りさせてあげて」
「はっ!」
「お願いね」

 微笑むと、ダイアナはデルカダール城に帰宅した。ダイアナの生まれ育った城に。