■繋がる未来―秘密の部屋―
19:いかに違うか
最初の犠牲者は二階の女子トイレのすぐそばだった。そしてそこには嘆きのマートルが住み着いている。配管を通ってバジリスクが行き来していたというのなら、秘密の部屋の入り口も女子トイレの中にあるかもしれない。
もう外は真っ暗だった。夕食だって食べていない。だが、空腹なんて全く感じず、三人は女子トイレへ向かうことしか頭になかった。だが、順調に階段を駆け上がっていたハーマイオニーの足が止まる。
「でも、私たち、どうやってバジリスクに立ち向かえばいいのかしら?」
「ここまで来て怖じ気づいたのかい?」
「闇雲に向かっても石にされるか死ぬだけよ! ハリエットを助けるのなら作戦を練らなくちゃ。ハリエットを操っている人の正体も分からないのよ。得体が知れないわ」
「でも、のんびりしてたらハリエットが殺されるかもしれない!」
「私たち、誰かの助けを借りるべきよ」
ハーマイオニーが冷静に言った。
「でも、ハリエットが操られたっていう証拠を見つけるまでは……」
「助けを借りて、その上で見つければいいのよ。事情を話して、きっと手助けしてくれる人――先生。実力があって信頼できる教師」
三人はじっとお互いを見つめた。
「マクゴナガル――」
「ロックハート先生!」
ハリーとロンの声は、それ以上に大きいハーマイオニー一人の声にかき消された。
「ロックハート先生ならきっと助けてくださるわ。それに実力も申し分ない」
「申し分ない?」
ロンが呆れて首を振った。
「ピクシー小妖精に情けなく杖を盗られてたのは誰? ハリーの腕を骨抜きにしたのは? 僕たち、あの人がちゃんと呪文を使ったところ見たことあったっけ?」
「本気を出してないだけよ」
本気でのたまうハーマイオニーに、ロンはパクパクと口を開け閉めすることしかできなかった。何とか言ってくれよ、とハリーを小突くも、ハリーは早くハリエットの元に駆けつけたかったので、ハーマイオニーに賛成するのが早いと考えた。
「分かった。ロックハートに協力してもらおう」
「ハリー!」
「じゃあ決まりね。先生の部屋へ行きましょう」
「全く……どうなっても知らないからな!」
人気のない廊下を進み、三人はロックハートの部屋を目指した。念のため、透明マントを被り、更には手鏡で曲がり角を確認する徹底ぶりだ。
取り込み中なのか、ロックハートの部屋の中からは何やらゴソゴソ慌ただしかった。ハーマイオニーがノックをすると、中は急に静かになり、そしてほんの僅かに扉が開いた。
「誰だね? 私は今少々取り込み中なので、急いでくれると……」
「先生、助けてください。私たち、ハリエットを助けたいんです」
「ああ、そのことですか――」
ロックハートは空いた隙間から廊下をキョロキョロ眺め、観念したように三人を中に招き入れた。
「中で話しましょう。バジリスクがうろついているかもしれないからね」
部屋の中はがらんとしていた。床には大きなトランクが二つ置いてあり、ローブやら本やらがごちゃ混ぜに突っ込まれている。
「どこかへ行かれるんですか?」
「ああ――ええ、緊急に呼び出されて……仕方なく行かなければ……」
「でも、先生方は明日バジリスクを捜索するのでは?」
「私もそう言ったのだがね、どうにも断れなくて……」
「もう少しホグワーツにいられませんか?」
ハーマイオニーが縋るように頼んだ。
「秘密の部屋の場所が分かったんです。ハリエットはきっとそこにいる……。でも、私たちだけでバジリスクに立ち向かえるか分からなくて」
ロックハートの顔が引きつった。
「なぜそれを私に言うんだ? 他の先生方に説明して、彼らに……」
「事情があるんです。実は、ハリエットが誰かに操られて秘密の部屋を開けてしまったみたいで……。このままじゃハリエットが犯人にされてしまいます。何とか無実の証拠を見つけたいんです!」
「なるほど、うん……。助けたいのはやまやまだが、しかし私には緊急の用事が……」
「闇の魔術に対する防衛術の先生じゃありませんか!」
煮え切らないロックハートにハリーが叫んだ。
「生徒の命よりも大事な用事って何ですか!」
「いや、しかしですね、私がこの仕事を引き受けた時は、職務内容には何も……こんなことが起こるとは……」
「先生、逃げ出すっておっしゃるんですか? 本に書いてあるようにいろいろしてきたんでしょう?」
「あの本だけでは誤解を招いたかもしれない」
「何が誤解だって言うんですか?」
「考えてもみなさい」
ロックハートはあちこちに視線を彷徨わせた。
「私の本があんなに売れるのは、中に書かれていることを全部私がやったと思うからでね。もしアルメニアの醜い魔法戦士が主人公だったら、たとえ狼男から村を救ったのがその人でも、本は半分も売れなかったはずです。本人が表紙を飾ったらとても見られたものじゃない――要するに、そういうことです」
「それじゃ、先生は他の人の手柄を、さも自分がやったかのように本にしたんですか?」
ダンブルドアが決めた教師だからと、僅かながらに残っていたロックハートを信じる気持ちがガタガタと崩れ落ちていくのをハリーは感じた。ハーマイオニーでさえ、真っ青な顔でじっとロックハートを見つめている。
「ハリー、そんなに単純なものではない。仕事はしましたよ。そういう人たちを探し出して、手柄を聞き出し、そして忘却術をかける。私が自慢できるものがあるとすれば、それは忘却術ですね。ハリー、大変な仕事ですよ。有名になりたければ、長く辛い道のりを歩む覚悟がいるのです」
もはや何も言えない。
黙っている三人の前でロックハートはパチンとトランクの鍵をかけた。
「さて、最後にやり残したことが一つだけ残っていますね。あなたたちには気の毒ですが、忘却術をかけさせてもらいますよ。私の秘密をペラペラ喋られたらもう本が一冊も売れなくなりますからね」
ロックハートが杖を振り下ろすよりも早くハリーが呪文を唱えていた。
「エクスペリアームス!」
高らかと響いたその呪文はロックハートを吹き飛ばした。彼の杖は空中を舞い、ロンがキャッチした。無下なくロンはそれを窓から放り投げた。
「決闘クラブを開催したのが間違いでしたね」
「何が望みなんだね?」
「一緒に秘密の部屋についてきてもらいます。いないよりマシだ」
「いない方がマシだよ」
ロンが小さな声で言った。
「何の役に立つんだ?」
「ハリエットのことを話してしまった。一緒に来てもらうしかないよ」
ロックハートを先頭に、ハリーは杖を突きつけながら女子トイレへ向かった。一番にトイレに入る時、ロックハートは怯えていた。
「あら。あんたたち、今度は何の用なの?」
嘆きのマートルは一番奥のトイレに座っていた。
「君が死んだ時の様子を聞きたいんだ」
マートルはたちまち嬉しそうな顔になった。てっきり泣きわめくと思っていたハリーは拍子抜けだ。
「オォォォォウ、怖かったわ。まさにここだったの。このトイレで死んだのよ。オリーブ・ホーンビーがひどいことを言うもんだから、ここに隠れて泣いていたの。そうしたら誰かが入ってきて、何か外国語みたいなのを話してたわ。嫌だったのは、それが男の子だったこと! 出てってって言うつもりでドアを開けて、そして死んだの!」
ロックハートが後ずさりして逃げようとしていたが、ロンが壊れかけの杖で脅して元の位置に戻した。
「覚えてるのは、大きな黄色い目玉が二つ。身体が金縛りに遭ったみたいだったわ」
「その目玉はどこで見たの?」
「その辺りよ」
マートルはトイレの前の手洗い台を指さした。ハリーとハーマイオニーは急いで手洗い台に近寄り、調べ始めた。普通のそれとあまり変わらないように見えたが、銅製の蛇口の脇の所に引っ掻いたような小さなヘビの形が彫ってあることに気付いた。
「その蛇口は壊れてるのよ。水なんて出ないわ」
「でも、扉なんだよね? ドアノブはないの?」
ロンが焦れて覗き込む。ハリーは押し黙り、ハーマイオニーも黙ったまま彼を見つめている。
「どうやって開ければいいんだろう?」
「二人とも……」
ハリーの掠れ声に、ロンはきょとんと彼を見やる。
「今から僕がすることは……誰にも……誰にも言わないでほしい」
縋るような目だった。ハーマイオニーがすぐに頷いた。
「絶対に言わないわ」
「ハリー? 僕、何のことだか……」
「開け」
ハリーは呟いたが、ハーマイオニーは首を横に振る。
「ハリー、駄目よ。ヒトの言葉だわ」
「――開け」
次にハリーの口から飛び出してきたのはシューシューという空気の漏れ出る音だった。その瞬間、蛇口が目映い光を放ち、回り始めた。手荒い台が沈み込み、完全に見えなくなると太いパイプがむき出しになる。大人一人は余裕では入れるほどの大きなものだ。
「ハリー、君……」
「パーセルマウスなのか?」
ロックハートが唖然として言った。
「まさか……スリザリンでもない……ジェームズ・ポッターの息子がパーセルマウスだって?」
ハリーは顔を背けた。自分でも同じことを思っていたからだ。父もシリウスもスリザリンが大嫌いだ。もしも自分がパーセルマウスだと知られたらどうなるだろう? 勘当――とまではいかないだろうが、失望されるかもしれない。ハリー自身、パーセルマウスであることに絶望したのだ。
マグル生まれを排斥しようとしたサラザール・スリザリン。秘密の部屋を造り、バジリスクをそこに住まわせた張本人。彼はは千年以上も前の人間だ。子孫だという可能性もないわけではない。しかし、血筋や家系云々ではなく、もっと本質的なこと――ハリーが最も直面したくなかった事実――自分自身がスリザリンの性質を持っていたということに愕然としたのだ。組分け帽子を被った時、帽子は、ハリーをスリザリンへ入れたがっていた。それは、ハリーがパーセルマウスであることや、スリザリンらしい何かを見抜いてのことだったのではないか? スリザリンに入れば間違いなく偉大になれる道が開けるとも帽子は言っていた。偉大なこと? オリバンダーは、ヴォルデモートはある意味では偉大なことをしたと口にした。そうだろう……何をもって偉大というかは人それぞれだ。ハリーがスリザリンに入れば、人道に反した偉大なことを成し遂げるかもしれなかったのだ。
決闘クラブ以降ずっと思い悩んでいたことがまた頭の中を支配する。それを打ち破ったのはロンだった。
「もしかして、それでずっと落ち込んでたのかい? 決闘クラブの時から? 馬っ鹿だなあ。なんでもっと早く教えてくれなかったんだ?」
「でも……」
「確かにちょっと驚いたけど、ヘビと話せるくらいでなんだ? 蜘蛛と話せるって言われた方がもっとショックだよ」
「そうよ、ハリー。気にすることないわ」
「ありがとう……」
ハリーは小さく笑った。少し胸のつかえが下りた気がする。ロンの言う通り、もっと早く打ち明けていればと思ったくらいだ。
「早く行こうよ。ハリエットなんて、きっと『ヘビと話せるなんて素敵!』って言うに決まってるんだから」
「ヘビは喜ぶかしら……」
二人のおかげで気が楽になった。
ハリーは静かな気持ちでパイプを見下ろした。
「みんな準備はできた?」
「ハリー、待って。――先に降りて」
ロンがロックハートに杖を向けた。ロックハートは弱々しく微笑む。
「私が? 杖も持たないのに?」
「僕たちもすぐ行く」
「君たち――」
何か言いかけていたが、ロンがその背中を押したので、落下したロックハートの声は悲鳴となり、やがて小さくなっていく。続いてハリー、ロン、そしてハーマイオニーの順でパイプを滑り落ちていった。
パイプはやたらヌルヌルしていた。途中、あちこちで四方八方に枝分かれしているパイプがあったが、今降りて行っているパイプほど太いものはない。
長い時間パイプの中を滑っていた。着地のことを考え、杖を構えていたのだが、やがてパイプは平らになり、そして出口から放り出された。少し離れた所でロックハートが立ち上がるところだった。ハリーもすぐに脇にずれる。
「ルーモス」
着地した場所はどうやらトンネルの中らしかった。声が反響している。
ハーマイオニーが落ちてくるのを待ち、四人は歩き始めた。
「みんな、いいかい? 何か動く気配があったらすぐに目を瞑るんだ」
トンネルの中にはたくさんの動物の骨が散らばっていた。バジリスクの食事の残骸だろう。ハリエットのことを思い、ハリーはギュッと唇を噛みしめる。
「ハリー、あそこに何かあるよ」
ロンの声に四人は凍り付いたように立ち止まる。視線の先――トンネルを塞ぐように何か大きいものがあった。動く気配はない。
「バジリスク?」
「眠ってるのかもしれない」
杖を構え、直視しないように輪郭を見ながらジリジリ近づいた。杖灯りが照らし出したのは、巨大なヘビの抜け殻だった。毒々しい鮮やかな緑色の皮がとぐろを巻いて横たわっている。ゆうに六メートルはあるに違いない。
「これと戦うの?」
ロンが呟いた瞬間、ロックハートが動いた。ロンに飛びかかって床に殴り倒し、杖をもぎ取ったのだ。ロンの前にいたハーマイオニーは気付くのが遅れ、そのままロックハートに首に腕を回され、杖を突きつけられる。
「バジリスクと戦う? ご冗談を! 楽しい冒険はこれでおしまいだ! 私はこの抜け殻を教師陣に見せ、真実を告げよう。パーセルマウスだったハリーがバジリスクを操り、そしてミス・ポッターと共にホグワーツを恐怖に陥れた……。真の継承者はあのポッターの子供だったということをね!」
「ふざけないで! 黒幕は別にいるのよ!」
「パーセルマウスは闇の魔法使いの印だ。ヘビと話せるまともな魔法使いなんて聞いたことがない。皆が私を信じるだろう。君たち二人は――そうだね、友達だと思っていた二人に襲われ、哀れにも気が狂ったという設定でいこう。さあ、今までの自分に別れを告げるがいい!」
「いい加減にしなさい!」
ハーマイオニーはロックハートの足を全力で踏みつけると共に、振り向きざま右手で彼の顔を殴りつけた。呪文が途切れたのを皮切りにハーマイオニーは彼の腕から脱出するも、しかしロックハートの杖先はまだハーマイオニーを狙っている――。
「ハーマイオニー!」
駆け出したロンがハーマイオニーを押し倒すのと、ロックハートがロンの折れた杖を振りかぶるのは同時だった。
「オブリビエイト!」
杖は小型爆弾並みに爆発した。トンネルの天井が轟音を上げて崩れ落ちてくる。その出来事は僅かな時間ではあったが、状況を変えるには充分だった。
何とか崩壊に巻き込まれずに済んだハリーは大慌てで叫んだ。
「ロン! ハーマイオニー! 大丈夫!?」
「大丈夫!」
岩の固まりが壁のように塞がっている向こう側から、ロンの声がぼんやり聞こえてきた。
「二人とも無事だ!」
「でもこの人は駄目みたい」
心底失望した声でハーマイオニーは言った。
「逆噴射で吹っ飛ばされたのよ。気絶してるわ」
「でも、これどうする? こっちからは行けそうにないよ」
トンネルの天井には巨大な割れ目ができていた。強引にこの壁を掘り進めようとしたら、もしかしたら更に崩れてくるかもしれない。
「二人ともそこで待ってて。先に進む。一時間経っても戻らなかったら……」
「ハリー」
壁越しにハーマイオニーが声をかけた。やけに落ち着いた彼女の声は、ハリーの不安をも吹き飛ばしたかのようだった。
「私、あなたがパーセルマウスであることを誇りに思うわ」
一瞬、ハリーは呼吸を忘れてしまった。ハリーがじっと見つめると、ハーマイオニーは優しく微笑む。
「あなたがパーセルマウスなのはこの時のためだったの。秘密の部屋を開けてハリエットを助け出して、ホグワーツをも救う! 闇の魔法使いと違うのはそういうところよ」
「……うん」
「絶対に帰ってきて。ハリエットと二人でね」
「うん」
「ハリー! 待ってるから!」
友人の声を背に、ハリーは再び歩き出した。真っ暗闇の中、それでも心の温かな灯火は決して消えることはなかった。