僕が覚えてる
― 03:幸せであればいい―
それから、隠れ穴でのハリエットの不思議に満ちた生活が始まった。物が宙に浮いたり、ふくろうが手紙を届けに来たり、写真がテレビのように動いたり、チョコレートがピョンピョン跳ねたり。
ロンやハーマイオニーが、実際に魔法を使っているのを見ると、ハリエットも早く使ってみたいという思いが強くなったが、しかし、未成年は夏季休暇中は魔法を使用してはいけないという。あと数日で成人に達するので――十歳のハリエットとしては全く実感が湧かないが――ハリエットはその日を心待ちにしていた。
折角の魔法を使えないハリエットを不憫に思ってか、ロン達は箒乗りに誘ってくれた。何の変哲もない一本の箒だが、魔法使い、魔女であれば、誰でも箒に乗って空を飛べるという。これにはハリエットも興奮した。空を飛ぶだなんて、飛行機にすら乗ったことのないハリエットには夢のまた夢の出来事に思えた。
「ほら、箒に跨がって」
果樹園に着くと、ハリエットはロンの箒を貸してもらって指導を受けた。
「合図をしたら地面を蹴って」
「ハリー、最初は基礎からの方が良いんじゃない? ほら、『上がれ』ってやるの」
「あれ、意味あるの?」
「いきなり乗るよりはずっと。クィディッチ今昔にも書いてあったわ。始めは箒に乗り手を認識させることが大切だって。お忘れかもしれないけど、ハリエットはまだ一つの魔法すら使ったことがないんですからね」
ハーマイオニーの隙のない正論に、僕は実践派だから、ともごもご言い訳しつつも、ハリーはハリエットに『上がれ』と箒の柄を掴む訓練をさせた。
「じゃあいよいよだ。ハリエット、箒に跨がって」
「ええ……」
ハリエットは怖々箒に跨がった。これから空を飛ぶだなんて言われても、未だに実感が湧かない。せめて最初はハリーが空を飛ぶ所を見せて欲しかったのだが、ハリエットに教えることに夢中な兄にそんなことを言える状況ではない。
「いい? 一、二、三で地面を蹴ってね」
安堵すべきは、隣でハリーも箒に乗り、ハリエットがどんな失敗をしようとカバーできる体制を整えてくれていることだろう。自分が空から真っ逆さまに落ちに所を想像して、ハリエットはぶるりと身体を震わせた。
「――三!」
そんなことをつらつら考えている間に、合図の瞬間だった。慌てたハリエットは、その勢いのまま地面を強く蹴った。――あまりにも強く。
「〜〜っ!」
勢いがついたハリエットは、一気に十メートルもの高さに浮かび上がった。しかもそれだけではない。ハリエットは空中停止をイメージしていたにも関わらず、箒は止まってくれず、加速しながら果樹園の方に突っ込んでいく。
「はっ、はりっ、ハリー!!」
今のハリエットには、兄の名を叫ぶことしかできなかった。どうすれば箒を制御すれば良いのか分からない。そう間を置かず目の前に大木が迫り、ハリエットがギュッと目を瞑れば――気づけば、唸るような風が止んでいた。いつの間にやら、ピタリと箒が止まっていたのだ。
「大丈夫だから……そのまま、力を抜いて」
ハリーの声がすぐ側から聞こえてくる。どうなっているのか状況を確認したい気持ちもあったが、それ以上に恐怖が勝って、ハリエットは前を向いたまま何度も首を縦に振った。
何がどうなっているか分からないまでも、ハリエットを乗せた箒は徐々に下降を始めた。
ようやく両脚が地面にしっかり着地したとき、ハリエットはぐでんと身体中の力を抜いた。慌ててハリーが支える。その時になってようやくハリエットはハリーが箒の柄を握っていてくれたことに気づいた。
「ハリエット、勢いよく地面を蹴りすぎだよ」
「だ、だって、緊張しちゃって……」
「ネビルみたいなことにならなくてホッとしたよ……」
安堵のため息をつきながらハリーが言い、ロンもクスクス笑った。
「ハリエットがあんな目に遭えば、僕ら、ママからどんなに叱られるか! きっと心配のあまり、ハリエットは成人しても箒に乗らせてもらえないだろうな」
「ここにはマダム・ポンフリーがいないんだもの。当然だわ!」
青い顔でハーマイオニーも叫ぶ。
「ハリー! やっぱりもう少し基礎をやってからよ! 自転車みたいに、誰かが支えながら乗った方が安全だと思うわ」
ハリエットは必死にこくこく頷いた。先ほどのようにハリーが支えてくれるのであれば、まだ暴走せずに乗れそうな気はした。
とはいえ、ハリーに支えてもらう状態でも、箒が暴走した時の恐怖が拭えず、ハリエットは一メートルほどの高さをウロウロするばかりだった。
「もうちょっと高い所までおいでよ。そんな所を飛んでても楽しくないでしょ?」
「でも、あんまり上の方まで行くと、さっきみたいなことになるんじゃないかって……」
「僕が支えてるから大丈夫だよ」
ハリーに言われても、ハリエットはなかなか勇気が出なかった。そのままふよふよと一メートル付近を漂っていれば、先に痺れを切らしたのはハリーだった。
「それなら、僕の箒に乗る? それだったら怖くないでしょ?」
「ハリーの? 二人乗りって危なくないの?」
ハーマイオニーが心配そうに言った。なぜかロンが得意げに答える。
「ハリーの腕前なら大丈夫だよ。最年少シーカーなんだから!」
「あら! シーカーだからって安全運転ができるとは限らないじゃない」
「ハリーが一度だって危ない箒の乗り方をしたことがあるかい?」
「私は何度も冷や冷やさせられましたけどね!」
「それはハリーのせいじゃないじゃないか!」
シーカーは何だろうという疑問から、ハリーが危ない目に遭ったということを聞き、ハリエットは更に不安に襲われた。
心の中がモヤモヤするが、原因は分からない。
モヤモヤが晴れる前に、ハリーがハーマイオニーを説き伏せ、ハリエットが後ろに乗る形で二人乗りすることになった。
散々『安全運転で!』と念を押したためか、ハリーはひどく慎重に飛んでくれた。ハリエットも、下を見ようとしなければ、とても素晴らしい空中飛行を楽しむことができた。
川の上を飛んだときなんかは、気分が高まり、はしゃいだ声を上げて水面を蹴った。キラキラ光に反射した水しぶきが上がる。
「濡れるよ」
「だって気持ち良さそうだったから!」
これで最後だ、とハリーがぐんとまた浮上を始めたときの夕日は、とても美しかった。地上で見たときのそれとは何ら変わりがないはずなのに、ハリエットの胸に訴えかけてくるようなその美しさは。
どこか既視感を覚えるものだった。誰かの肩越しに、かつて同じようにこんな夕日を見たような。この美しい夕日を見たのは、今が初めてでないような。
「もうそろそろ降りるよ」
ハリーの声にハリエットは意識を引き戻す。そして眩しい夕日に背を向けたとき、丁度隠れ穴が視界に飛び込んできた。そこに立っていたのは青年だった。小さな窓から微かに見えたのはプラチナブロンドだったように思う。
彼とは、目が合うまでもなかった。瞬きもしないうちに、パッと部屋の奥に引っ込み、見えなくなってしまったからだ。不思議に思っている間に、ハリエットの両足は地面にしっかりとついていた。
「どうだった?」
ぼんりやりしているハリエットを覗き込み、ハリーが尋ねる。ハリエットは慌てて笑みを浮かべた。
「楽しかった! とっても! 空って素敵ね!」
「でしょ? ハリエットも練習すればすぐに飛べるようになるよ」
「なんたって、ハリエットはダンブルドアに褒められたこともあるんだから!」
得意げにロンは胸を張ったが、言い終えた後、何故だかみるみるその顔は苦虫をかみつぶしたような表情へ変化する。
「……ダンブルドア?」
「アー、校長先生だよ……。ホグワーツの」
「私、校長先生に褒められたの?」
「うん。苦手だったのに、よく頑張ったって」
「だったらちゃんと頑張るわ」
折角褒められたんだから、と笑えば、ハリー達は皆が皆、笑みを作ろうとして失敗した顔になった。何かまずいことでも言ってしまったのかとハリエットは不安になるが、聞くに聞けなかった。静かになってしまったこの場において、もう踏み込んで欲しくないという声なき拒絶を敏感に感じ取ったのだ。
気まずい沈黙に包まれる前にハリエットはちらりと隠れ穴へ視線を走らせた。
「そういえば、マルフォイさん? あの人は一緒に箒に乗らないの?」
「アー……」
ロンがちらりとハリーへ顔を向ける。ハーマイオニーもだ。
「あの人は乗らないよ。僕らとはあんまり仲良くしたくないだろうし」
「どうして?」
「友達っていう訳じゃないし……仲間っていう訳でもない。マルフォイは……僕らのことを助けてはくれたけど、それ以前にいろいろあって、なんて言えば良いのかな」
「ハリエットは気にしなくて良いってことさ」
ロンが無理矢理そう締めた。これ以上深入りされたくないという様子だ。
「それよりも、僕お腹空いたな。もうそろそろ戻ろう。夕食ができてる頃だ」
箒を担ぎ、ロンが一番に歩き出した。ハリーとハーマイオニーがその後に続いたので、ハリエットは戸惑いつつも三人についていった。
*****
厨房に足を踏み入れた瞬間、腹の虫をくすぐるような何とも良い匂いがハリエットを包み込んだ。箒を片付け、子供達はすぐに夕食にありついた。ハリエットは特に今日は運動をたくさんしたので――箒が運動と言えるかは怪しいが――お腹一杯食べた後はすっかり眠くなってしまい、柔らかなソファの上でうとうと微睡んだ。
詳しいことはあまり聞かされていないが、とある病気で、ハリエットはずっと昏睡状態だったのだという。その影響で、ハリエットの眠りは深く、目を覚ませばもう夜だったということも稀ではない。そんなハリエットの体調を気遣ってか、ハリエットが眠そうにしているときは、誰も声をかけず、そっとしておくか、早々にベッドに運ぶかのどちらかになることが多かった。今日はどうやら前者の方らしい。ハリエットは徐々に皆の声が小さくなっていくのを申し訳なく思いながらも、抗えない眠気に身を委ねた。
*****
弾けるような笑い声に、ハリエットはビクッと目を覚ました。一瞬、自分がどこにいるのかも分からず、パチパチと瞬きする。
「ロン、静かになさい。ハリエットが起きるでしょう」
「だって、フレッドが――」
「だから静かに!」
モリーの囁くような叱り声に、ロンは不承不承押し黙った。それでもその顔は不服そうだ。
「なんで僕ばっかり怒られるんだよ。二人がからかってくるのが悪いんだろ」
「おいおい、それは聞き捨てならないなあ。甘やかされてるのはむしろお前の方だろ?」
ジョージが笑って言った。
「俺たちよりもお前の方がよっぽど校則を破ってるって言うのに、お袋はどうして純粋な俺たちばかりを叱るのか……」
「お袋、知ってるかい? ロンはポリジュース薬を作ったこともあるし、透明マントを被って深夜徘徊なんてお手の物!」
「ハリーとロンは、俺たちよりもよっぽどたちの悪い問題児なんだから!」
「夜中にドラゴンを運んだって言うのも、チャーリーから聞いたときは驚いたぜ。何でその時俺たちに声をかけてくれなかったんだ? 俺たちの助けがありゃ、マルフォイに告げ口されることもなかったのに!」
「ロン、どういうことなの? ドラゴンだなんて!」
「僕達は悪くないよ! そもそも元はといえばハグリッドが悪いんだ――」
ハリエットが目を覚ましたことには誰にも気づかれなかった。ウィーズリー家の団らんは、ハリエットが横たわっているソファの裏側で行われているのだから。
「でも、そのせいで減点受けただろう? 一人五十点」
「五十っ――」
「ああ、おふくろが白目剥いた。俺達でもなかなかこんな顔させたことはないぜ」
「茶化さないの! ロン、五十点減点だなんて、よくもまあ他の生徒ににそんな迷惑を――」
「でも、最後には取り返した! 僕はチェスで、ハーマイオニーは論理で、ハリエットだって箒で五十点分取り返したんだよ!」
「ハリーは更に六十点だから、まあ結果的にはプラスだよな」
「だからって――」
「おばさん、すみません。あまりロンを怒らないで……。僕達も共犯者だし、もし怒るなら僕達も一緒に――」
「そうだよ、ママはハリーを怒れるのかい?」
うっとモリーは詰まった。フレッドはニヤニヤ笑いながらジョージに言う。
「おふくろ、ハリー達には激甘だからな」
「ハリー、ちょっとおふくろのこと怒らせてくれ」
「いや、ちょっと待て。逆にハリーは何をすればおふくろは怒るんだ? きっとロックハートの本をズタズタにしても怒らないぜ」
「一回やってみるか?」
「馬鹿言うんじゃないの、フレッド、ジョージ!」
和やかな笑い声が居間に響き渡る。昼にも感じたモヤモヤが大きくなっていることに気づき、ハリエットはますます身を縮こまらせた。
このモヤモヤの正体が何なのか、さすがにハリエットも理解せざるを得なかった。仲間外れのような気分――疎外感だ。
昼にも感じたモヤモヤが大きくなっていることに気づいた。
ハリーが、自分たちが突然十六歳になってしまったことは、理解できた。ただ、問題は、ハリーにはちゃんと六年分の記憶があり、ハリエットにはそれがないことだ。
今まで、ハリーとハリエットは二人だけの世界で支え合うようにして生きてきた。ハリエットにはハリーだけが全てだったし、ハリーもそうだろう。だからこそ、二人揃って世界から置き去りにされるのはまだ理解できる。だが、それなのに、まるでハリーに置いてけぼりにされたような――皆にハリーまでを盗られたような感覚になって、ハリエットは胸が締め付けられる思いだった。ハリエットにとっては、ハリーだけが家族で、ハリーだけが話し相手で、ハリーだけが唯一心を許せる相手だったのに――。
皆はハリエットに優しい。それはこの数日間で十二分に分かった。だが、距離がある。ハリー相手でさえ、ハリエットにはどこか遠慮がある。それが悲しい。
周りから見ればハリエットが異端なのは分かる。だが、ハリエットにしてみれば、皆の方が異端なのだ。初めて会う人達なのに、自分のことを、もしかしたら自分以上に知っている存在。
不意に誰かが近寄ってくる音がしてハリエットは身を強ばらせた。上から声が降ってくる。
「ハリエットはもう本格的に寝てしまったようだな」
「シリウス、上に運んであげてくれる?」
「もちろん」
ハリエットの膝裏に手を差し込み、シリウスは軽々と持ち上げた。本来なら、こういうときこそ魔法の出番だろう。だが、前に一度魔法で浮かせようとした所、ハリエットが怖がったため、シリウスは手ずから運んでくれるようになった。
ハリエットを起こさないように、シリウスは慎重に慎重に階段を上がっていく。
――シリウスは、優しい。
だが、この人のことだって、ハリエットには分からない。後見人、名付け親、父親の大親友――いろいろ説明をされはしたが、肩書だけ分かったとしても、ハリエットは何も覚えてないのだ。それが申し訳なくて、寂しくて、でも分からないのは仕方ないじゃない、という気にもなってきて、ハリエットはいつもどうすればいいか分からなくなる。
寝室につき、シリウスはゆっくりハリエットをベッドに下ろした。優しくハリエットの頭を撫で、彼は去って行った。
その優しさが、今のハリエットには重荷に感じて仕方なかった。