■秘密の部屋

13:リドルの真実


 ハリー・ポッターは秘密の部屋に立っていた。

 継承者だと疑われ連行されたハグリッドの助言通り、蜘蛛を追ったハリーとロンは、アラゴグに出会った。アラゴグは、秘密の部屋にすむ怪物ではなく、前回も、そして今回も人を襲ってはいないという。ハグリッドは継承者ではなかった。そしてアラゴグはこうも言った。五十年前死んだ女生徒は、トイレで見つかったと。

 秘密の部屋のせいで、ダンブルドアも定職になり、ハリーは焦っていた。だが、そんなとき、ハーマイオニーの残した紙切れと走り書きのおかげで、怪物の正体がバジリスクで、パイプを通って次々に生徒を襲っていたことに気づいた。

 その矢先、ハリエットが秘密の部屋に連れ去られた。伝言が残されていたのだ、『彼女の白骨は永遠に秘密の部屋に横たわるであろう』と。

 ロン、ロックハートと共に女子トイレに向かい、そこでハリーは秘密の部屋を開けた。裏切ったロックハートは、ロンの壊れた杖で自滅してしまった。

 ロックハートのせいで崩れてしまったトンネルで、一人ハリーは先に進むことを決めた。

 そして今、ハリー・ポッターは秘密の部屋に立っていた。

 巨大なヘビの柱が左右一対になり、中央に道を作っていた。ハリーの足音だけが部屋に反響していた。

 最後の一対の柱まで来ると、部屋の天井に届くほど高くそびえる石像が壁を背に立っているのが目に入った。

 巨大な石像だ。年老いた猿のような顔に、地面までゆったり広がる長いローブ。その足下に、見慣れた赤毛の、黒いローブの小さな姿がうつ伏せになって倒れているのを見つけた。

「ハリエット!」

 我を失い、ハリーは彼女に駆け寄った。急いでハリエットを仰向けにする。彼女の顔は青白く、氷のように冷たかった。石にされてはいない。だが、彼女は――。

「君の妹はもう目を覚ましはしない」

 ハリエットではない、誰かの声がした。ハリーはハッとして顔を上げる。

 背の高い、黒髪の少年が柱にもたれてハリーを見ていた。

「トム……トム・リドル? 目を覚まさないってどういうこと? まさか、ハリエットは――」
「まだ生きている。しかし、辛うじてだ」

 リドルは少しずつハリーに近づいた。

「僕が命を吸い取ったから」
「どういうことだ?」

 ハリーの視線が鋭くなる。リドルは笑って手を広げた。

「僕は記憶だ。日記の中に、五十年間残されていた記憶。最初に、どうしてその子の手に僕が行き渡ったのかは分からない。ただ、確実に言えることは、その子は僕に魅入られた。そう、ハリー、君が僕をトイレで見つけるその前に、ハリエットは僕を見つけていたんだ」
「――っ」

 ハリーは困惑に言葉を失った。どういうことだ? ハリエットは、既にあの日記の存在を知っていた?

 日記を巡って、ドラコとハリエットが口論していたことはハリーも気になっていたが、兄の私物を取り返そうと妹が頑張ってくれたのかもしれないとずっと思っていた。でも、その予想は違った?

「話せば長くなる。ハリエットは、最初は日常の些細なことを日記に書き連ねた。マグルの家のこと、苦手な箒のこと、授業のこと。一番多かったのがロックハートについてだ。始めはロックハートロックハートうるさかったが、兄の君がロックハートに骨を抜かれた後は、ようやく大人しくなって助かった」

 リドルはげんなりしていた。

「僕は、現在の僕が何をしているのか気になった。僕には偉大な魔法使いになるという夢があった。かねてからの夢だ。だから、赤ん坊の頃の君に、ヴォルデモート卿の力が打ち砕かれたのに、君の方はたった一つの傷跡だけで逃れたと聞いて、疑問に思った」
「僕がなぜ逃れたのか、どうして君が気にするの?」
「ヴォルデモートは、僕の過去であり、現在であり、未来なのだ、ハリー・ポッターよ」

 トムはポケットから徐に杖を取り出した。ハリーは驚いた。あれは僕の杖だ! いつの間に盗られていたんだろう!

 トムはハリーの杖で空中に文字を書いた。そして、『トム・マールヴォロ・リドル』という名を、『俺様はヴォルデモート卿だ』という並びに変える。

「そう、僕は君が死に追いやったヴォルデモート卿の過去だ!」

 ハリーは血の気を失い、ハリエットをギュッと抱き締めた。そしてあることを思い出して舌打ちをする。杖だ――杖がない。対抗する術がない!

「僕は何としてでも君と話がしたかった。だからこそ、ハリエットを使って君をここに来させる必要があった。穢れた血の連中を殺すことは、もう僕にとってはどうでも良いことだった。僕の新しい狙いは君だった」
「なぜ……」
「ハリエットは、なかなか心を明け渡さず、臆病に見えて頑固で、頑なだった。君のことを聞いても詳しいことは話してくれなかった。日記のせいで体調が悪いと感じ始めても、あの子は日記を手放すことができなかった。僕がそうさせなかった」

 ハリエットの青白い顔が痛々しい。何としてでもハリエットだけは守らねばという思いが強まる。

「一人、途中で男子生徒が何か気づいて、やたらとお節介を焼いたのは気にくわなかったけど。でも、そのおかげで僕は君と出会った」

 男子生徒――というのが気になったが、ハリーが詳しく追求する間もなくリドルは続けた。

「僕は君を信用させるため、ハグリッドを捕まえたときの記憶を見せた。君はすっかり僕に気を許していた。そのまま君を秘密の部屋に連れて行く計画に変更しようと思っていたら、ハリエットが僕を見つけた。もうすっかり僕に魅入られていた彼女は、自力で日記を見つけ、そして救い出したんだ」

 ハリーは信じられない思いでハリエットを見た。部屋を荒らし、そして日記を盗み出したのはハリエットだったのか。あの時の彼女は、確かに上機嫌になって見えた。――背景に、そんなことがあったとは。

「君がハリエットを大切に思っていることは、彼女の言動からも明らかだった。だから僕がこうして形になって日記から出てこられる頃合いを見計らって、彼女をさらった。そして案の定、君はハリエットを助けにここまで来た」
「…………」
「僕は、世界一偉大な魔法使いだ。そのためにはハリー、君から真実を引き出さねばならない」
「違うな」

 ハリーは静かに否定した。

「何がだ?」
「君は世界一偉大な魔法使いじゃない。世界一偉大な魔法使いはアルバス・ダンブルドアだ。皆がそう言っている。ダンブルドアは君が在学中は君のことをお見通しだったし、君がどこに隠れていようと、未だに君はダンブルドアを恐れてる」
「ダンブルドアは僕の記憶に過ぎないものによって追放され、この城からいなくなった!」
「ダンブルドアは君の思ってるほど遠くに行ってはいないぞ!」

 リドルの顔が固まった。どこからともなく音楽が聞こえてきたのだ。音楽はだんだん大きくなってくる。この世のものとは思えない旋律だった。やがて音楽は止まり、ハリーのすぐ側の柱の頂上から炎が燃え上がった。

「不死鳥だな……」

 そこから現れたのは白鳥ほどの大きさの真紅の鳥だった。リドルは鋭い目で睨み付ける。

「フォークスか?」

 鳥はハリーの方に飛んできて、ボロボロの帽子を落とした。

「そしてそれは……組み分け帽子だ」

 リドルが笑った。高笑いが部屋に反響する。

「ダンブルドアが味方に贈ってきたのはそんなものか! 歌い鳥に古帽子じゃないか! さぞかし心強いだろう? もう安心だと思うか?」

 ハリーはジッとフォークスを見つめた。この二つが何の役に立つかは分からないが、もう一人ではない。

「さあ、待たせたね、ハリー。本題に入ろう。二回も――君の過去に、僕にとっては未来にだが――僕たちは出会った。そして二回とも僕は君を殺し損ねた。君はどうやって生き残った? 全て聞かせてもらおうか」

 ハリーは、最初の頃よりも、リドルの姿がはっきりし出していることに気づいた。ハリエットから魔力を吸い取り、今まさに実体として降臨しようとしていのだ。終わらせるのなら、早いほうが良い――。

「君が僕を襲ったとき、どうして君が力を失ったのか、誰にも分からない」

 ハリーは唇をなめた。

「僕自身も分からない。でもなぜ君が僕を殺せなかったか、僕には分かる。母が、僕を庇って死んだからだ。母は普通の、マグル生まれの母だ。でも、君が僕を殺すのを食い止めたんだ。僕は本当の君を見たぞ。去年だ。かろうじて生きていた。君は逃げ隠れしていた。醜い! 汚らわしい!」

 リドルの顔が怒りで歪む。しかしあくまで冷静になろうと彼は必死に自分を堪えているように見えた。

「そうか、母親が君を救うために死んだ、なるほど。それは呪いに対する強力な反対呪文だな。わかったぞ。結局君自身に特別な力はなかったんだ。実は何かあるかと思っていたが、見当違いだったようだ。結局幸運だったからに過ぎないのか。それだけ分かれば充分だ。君には無残に死んでもらおう。ダンブルドアがくださった精一杯の武器を使ってお手合わせ願おうか」

 ハリーのすぐ側の石像が動いた。石像の口部分が開き、そこから巨大なヘビが現れる。――バジリスクだ。ハリーは固く目を閉じ、ハリエットを抱えあげた。バジリスクに背を向けるが、どこへ逃げたら良いか分からない。

「あいつを殺せ」

 手探りで逃げようとしたが、バジリスクはしつこく追ってくる。ハリーは躓き、その場に倒れ込んだ。毒蛇はすぐ側まで来ていた。ハリーの真上でシャーッという音がした。ハリーは、ハリエットの上に覆い被さった。やられると思ったとき、シューシューという音と、何かがのたうち回って柱を叩き付けている音が聞こえた。

 ハリーは我慢ができず、薄らと目を開けた。

 巨大なヘビが、狂ったように柱の間を縫って動き回っていた。バジリスクは、空を飛ぶフォークスに気を取られていた。

 やがてフォークスは急降下し、長い金色のくちばしでバジリスクの目を潰した。おびただしい血が床に流れ、バジリスクは苦痛にのたうち回っていた。

「鳥に構うな! 放っておけ! 小童は後ろだ! 臭いで分かるだろう! 殺せ!」

 盲目となったヘビはフラフラしていたが、まだ危険だった。ハリーは急いでハリエットを一つの柱の後ろに隠した。

 フォークスは未だなおバジリスクを攻撃し続けている。バジリスクの尾が大きく一振りしたとき、ハリーの方へ何かが飛んできた。組み分け帽子だ。ハリーはそれをしっかり掴み、頭にぐいと被った。床に身を伏せると、その上をまたバジリスクの尾が通り過ぎた。

「助けて……助けて」

 ハリーが祈ると、返事の代わりに、帽子が急に縮んだ。固くてずっしりと重いものが、ハリーの頭のてっぺんに落ちてきた。目を瞬かせながら帽子を脱ぐと、長くて固い何かが手に触れた。目映い光承放つ剣だった。

「小童を殺せ!」

 ハリーが立ち上がると、バジリスクも猛然と襲ってきた。尾を避け、毒牙を避け、そしてハリーは、大きく開いた毒蛇の口蓋にズブリと剣を突き立てた。生暖かい血がハリーの両腕を濡らし、そして、肘のすぐ上に焼け付くような痛みが走った。バジリスクの毒牙が肘に突き刺さっていた。

 ハリーはズルズルと崩れ落ちた。フォークスがハリーの側に飛んできた。

「フォークス……ありがとう。ハリエットを……」

 フォークスの美しい涙が、ポトリとハリーの上に落ちた。幻想的な光景だった。ハリエットにも見せてやりたいとハリーは薄ら思った。

「ハリー・ポッター、君は死んだ。ダンブルドアの鳥にさえそれが分かるらしい」

 意識はもうろうとしていた。だが、視界はなかなか暗転しない。目を開ければ、ハリーの腕はフォークスの涙に濡れ、そしてあるはずの傷は消え去っていた。

「不死鳥の涙……そうだ、癒やしの力……忘れていた。だが結果は同じだ。一対一だ、ハリー・ポッター」

 リドルが杖を振り上げると、激しい羽音と共にフォークスが頭上に舞い戻って、ハリーの膝の上に何かを落とした。日記だ。

 ハリーは、反射的に、側に落ちていたバジリスクの牙を掴み、日記帳にズブリと突き立てた。

 恐ろしい悲鳴が長々と響いた。日記帳からインクが激流のようにほとばしる。リドルは身をよじり、もだえ、そして悲鳴を上げて……消えた。

 ハリーの杖と、そして力を失った日記帳だけがそこに残っていた。