■繋がる未来―秘密の部屋―
01:ホグワーツの罠
ピーターの最期の微笑みが何度もフラッシュバックして止まない。あの時のことをハリエットは今でも鮮明に覚えていた。エイブリーの歪んだ笑みに、ピーターの背中、何人ものマグルを巻き込んだ盛大な爆発――そして最後は肉片だ。大量の血だまりと焦げ付いた上着。ピーターを形作るものは何一つだってなかった。悲鳴さえもかき消した大きな爆発音の後、残ったのは千切、千切れた、指――。
ハッと目を覚まし、ハリエットは暗闇の中目の前を凝視した。ここは家だ。そこに何者だっているわけがない。それでも、何かが生暖かい息を吹きかけたような、そんな不気味な感覚が今もなお残っている。
ハリエットは両手で顔を覆い、何度も息を吸っては吐いた。だが、それでも不快な感覚はまだ消えない。ハリエットは頭から毛布を被り、ギュッと目を瞑った。成長し、小さくなり始めた毛布の裾から僅かに足が出ていたのに気付き、慌てて引っ込める。寒いわけではないのに、悪寒が走る。毛布の上から何かが押さえつけているような、そんな圧迫感まで感じ始めて、ハリエットはついにベッドから抜け出した。パッと灯りをつけ、ホッと息をついたのも束の間、やっぱり怖くなってきて部屋を抜け出した。わざと足音を立てて階段を降り、リビングのドアを開けた。何やら小さな声で会話をしていた両親はパッと振り返った。
「ハリエット……。どうしたの? 眠れない?」
リリーはすぐに立ち上がり、ハリエットを優しく抱き締めた。もう十二になる娘に対して些か幼子に対するような扱いだが、しかし今のハリエットにはこれが的確だった。
「お母さん……。今日一緒に寝てもいい?」
「もちろんよ。私もそろそろ寝ようと思っていたところなの。さあ、寝室に行きましょう」
「ホットミルクはいるかい? パパが持って行くよ」
少し考えて、ハリエットは首を横に振った。ジェームズは微笑んでおやすみのキスをした。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
両親の寝室は大きなダブルベッドが一つあるだけだ。大きくなってきたハリエットも入れて三人で眠るには些か窮屈なので、ジェームズはたびたびリビングで寝るようにしていた。ハリエットも申し訳なく思っているが、今の彼女にそのことを気にかけていられる余裕はない。
小さく灯りをつけ、ベッドに入ると、二人は向かい合わせに横になった。
押し黙るハリエットに、リリーは何も聞かない。代わりに、自分が学生の頃、友達とどんなことをして遊んでいたか話してくれた。ハリエットは小さく相づちを打つだけだが、それでもリリーは穏やかに、楽しそうに話を続けてくれる。
そのうち、ハリエットはうつらうつらと穏やかな眠りに誘われていった。
*****
翌朝、ハリエットは、己の背を撫でる優しい手付きに目を覚ました。ハリエットが起きるまで抱き締めてくれていたらしい。目が合うとリリーは微笑んだ。
「寝顔を見ていたら昔を思い出したわ。ハリエットがまだ小さかった頃。ハリーがどんなにぐずってもハリエットだけはぐっすり眠ってたものよ」
「私、そんなに寝るのが好きだったの?」
「ちょっと心配なくらいにね」
リリーは笑って答えた。
「さあ、そろそろ起きましょう」
「ええ」
リビングへ行くと、まだ眠たそうなハリーがオートミールを食べていた。
「おはよう」
「おはよう、ハリー。ジェームズはどうしたの?」
「出掛けたよ。すぐに戻ってくるって言ってたけど」
席につき、トーストを食べ始めたハリエットにハリーは躊躇いがちに話しかけた。
「アー……ハリエット、宿題はもう終わった?」
「ううん、まだ」
「何が終わってないの?」
「魔法史と薬草学がまだ……」
「それなら僕もう終わってる! 見せてあげようか」
ハリエットはリリーの目を気にしながら首を振った。母を前にしてこんなことを言い出す兄の正気を疑いながら。
「ううん、大丈夫よ。自分でやるわ」
「そっか……」
オートミールをぐるぐるかき回しながらハリーは頷いた。精神的に疲弊しているハリエットを兄なりに心配しているのだろう。妹が起き出してから一口も減ってないオートミールに免じて、あまり褒められない気の遣い方をしたハリーのことはリリーも見逃すことにした。
朝食を終えると、ハリエットはミモザの餌の準備をした。いつもならだいたいこの時間になればどこからともなく現れるのだが、もしかしたらジェームズに食べさせてもらったのかもしれない。
「ミモザを知らない?」
「いないの? 今日はまだ見てないよ」
ヘドウィグとウィルビーは仲良く窓辺に並んでフーズをつついている。一体どこへ行ったのだろう。
「そうだ。母さん、僕の部屋に入ったりしてないよね?」
ハリエットがテーブルの下を覗いたりクッションを持ち上げたりしていると、ハリーが言いづらそうに尋ねる。
「入ってないわ。どうかしたの?」
「アー……その、杖がないんだ。もし知ってたらと思って」
「まさか、無くしてないでしょうね?」
「いや、どこかにはあると思うよ。部屋のどこかに」
早口で言い終え、ハリーはさっさと退散した。リリーの小言が始まりそうな気配を感じ取ったのだろう。
「まだトランクの中にあるんじゃない?」
リリーがその背に声をかけたが、生返事が返ってきただけだった。あの様子では、トランクの中にもなかったのだろう。
「いくら家では魔法を使わないからって、杖を無くすなんて……」
リリーが困ったようにため息をつく。ハリエットはまだ朝食を食べ終えていなかったが、ミモザを探してリビングを出た。あまり食欲がなかったというのも大きい。自分の部屋につくと、まず一番にベッドを探したが、毛布を持ち上げてみてもいない。もしやと思ってベッドの下を覗くと、フサフサの毛玉のようなミモザがそこに丸まっていた。
「こんな所にいたのね。おいで」
ハリエットは手を伸ばしたが、ミモザは動かない。眠っているのかとその身体に手を当て、ハリエットは硬直した。冷たかった。日が当たらないからというだけでは決してない。ひんやりしていて、そして固い。もう息をしていないのだということは嫌でも分かった。
「お――お母さん――」
ミモザを抱き、泣きそうな顔でハリエットがリビングに入っていくと、リリーは全てを悟ったようだった。
「ミモザのこと、弔ってあげましょう」
「うん……うん」
ミモザの死期が近いことはハリエットも気づいていた。だが、気づいていただけで、心の準備なんて全くできていなかった。本当に死んでしまうなんてこと、思ってもみなかったのだ。
だが、死は誰しもに唐突に訪れることは、ハリエットも既に嫌でも経験していた。
「ミモザ、ピーターのことが好きだったから……。だから、ピーターが一人で寂しくないようにって逝っちゃったんだわ」
「――きっと二人で仲良くしているわ」
「で――でも、どうして一人で逝かせちゃったんだろう……。私が昨日お母さんの所で寝なきゃ、ミモザは寂しくなかったのに、わ――私の部屋で、一人で――」
嗚咽を堪え、ハリエットにリリーは優しく声をかけた。
「ミモザは優しい子よ。ハリエットに死に際を見られたくなかったんだと思うわ。ハリエットが泣いちゃうと思って」
「でも、でも!」
「ミモザは頑張って生きたわ。きっと、ハリエットの顔が見たくて休暇まで耐えたんだと思うの。ほら、そんな顔をしていたらミモザも心配で天国へ行けないわ。杖を持ってきて。弔ってあげましょう。私はハリーを呼んでくるわ」
「うん……」
すっかり肩を落とし、ハリエットはまた自分の部屋へ戻ってきた。今はまだベッドを見るのが辛くて、ハリエットは真っ直ぐ机に向かった。だが、そこにあるはずの杖が忽然と消えていて困惑する。確かに机の上に置いていたはずなのに――。
「ハリー・ポッター!」
その時、隣の部屋からキーキー声が響いてきた。驚いてハリエットは慌てて自室を飛び出す。ハリーの部屋の前でリリーが立ち尽くしていた。
「ハリー? 誰かいるの?」
「リリー・ポッター、それにハリエット・ポッターまで! お会いできてとっても光栄です……」
扉から中を覗くと、小人のような生き物がいた。コウモリのような長い耳をして、拳ほどの緑の目がギョロリと飛び出している。
「屋敷しもべ妖精よね? なぜ私たちの家に来たの?」
リリーは杖を片手にハリエットを背に追いやり、ハリーを近くに呼び寄せた。ピーターの件もあるのだ。いくらしもべ妖精とは言え、警戒するに越したことはない。
「ドビーめは、あなたたちに警告をしに来たのです。ハリー、ハリエット・ポッター、あなたたちはホグワーツに戻ってはなりません」
「何ですって? どういうことなの?」
「あなたたちは安全な場所にいないといけません。あなたたちがホグワーツに戻れば死ぬほど危険でございます」
「危険って……」
「一体何の騒ぎだ?」
暖炉から出てきてそのままやって来たジェームズはドビーを見て目を丸くした。対するドビーは、ジェームズを見てただでさえ大きな瞳を一層大きくさせた。
「ああ、ドビーにとって今日という日ほど素晴らしい日はないでしょう! まさかジェームズ・ポッター、あなた様にまでお目にかかれるなんて!」
「君の名前はドビーと言うのかい?」
「はい、はい……! ドビーめにございます。ドビーと呼び捨ててください」
「じゃあドビー、ひとまず座って話をしないか? そこはハリーのベッドだし、君にはたくさん聞きたいことがある……」
感激のあまり、スプリングを軋ませて飛び跳ねていたドビーは、そろりとベッドから降りた。かと思えば、ドビーはわんわん泣き始めた。あまりにも情緒不安定だ。
「座ってなんて……! これまで一度も……一度だって!」
「どうかしたの? どこか痛いの?」
躊躇いがちにハリエットが声をかけると、ドビーはピタリと泣き止んだ。信じられない者を見る目でハリエットを見ている。
「痛い? 痛いとお聞きになりましたか? ドビーめを心配してくださった魔法使いは、今まで誰一人としていませんでした!」
「君は優しい魔法使いにあんまり会わなかったんだね」
ハリーは同情するように言った。始めこそ突然現れたドビーに驚いたものの、しもべ妖精の生態はリーマスから習っている。働くことを生きがいとしており、仕える魔法使いに解雇されることを何よりの絶望と考えている魔法生物。
ドビーはじっとハリーを見つめ、頷いた。そして突然立ち上がると、またベッドに登って窓ガラスに頭を打ち付け始めた。
「ドビーは悪い子! ドビーは悪い子!」
「どうしたの!? なんでそんなことを――」
ハリーは慌てて止めさせようとした。だが、ドビーはその手を振りほどいて再開しようとする。
「ドビーめは自分でお仕置きをしなければならないのです。自分の家族の悪口を言いかけたのでございます。お仕置きに値します」
「ドビー、落ち着いて話をしよう。君がここへ来たのは主人の命令なのかい?」
「いいえ。ドビーめの意志でございます。だから後で厳しく自分にお仕置きをしないといけないのです。ご主人様にバレたらもう……」
「何のためにここへ来たんだ?」
「警告しに来たのです」
ドビーはまた同じことを説明した。ハリーとハリエットの身に危険なことが起こるので、決してホグワーツへ戻ってはいけないと。
「なぜ危険なことが起こるんだ? 詳しく聞かせてくれるかい?」
「罠です、ジェームズ・ポッター。今学期、ホグワーツで世にも恐ろしいことが起こるよう仕掛けられた罠でございます。必ずやあなたたちは巻き込まれてしまうでしょう」
ドビーが同情するようにハリエットを見た。
「誰がそんな罠を?」
ジェームズが尋ねると、ドビーは喉を絞められたように奇妙な声を上げ、狂ったように地面にバンバン頭を打ち付けた。ジェームズは慌ててドビーの腕を掴んでお仕置きするのを止めさせた。
「分かった、ドビー、言えないんだな? 大方、君の主人か――」
ドビーは目を見開き、あまりに大きな力でジェームズの腕を振りほどこうとするので、反対側からハリーが抑えないといけなかった。
「君の話はよく分かった。主人の不利になる行動をすることで後で自分の身にお仕置きをしなければならない――それでも私たちのためにここまで警告しに来てくれた。そうだね?」
ドビーはぶるぶると震えている。お仕置きをしなければと跪きたいのに、ハリーとジェームズに両脇を固められ、そうできずにいるのだ。
「僕たちをホグワーツへ行かせない……なんてことないよね?」
心配そうにハリーが尋ねた。ジェームズが口を開き、答えかけたところでドビーが口を挟む。
「でも、杖がなくちゃホグワーツへは行けないでしょう?」
「……杖を無くしたってどうして君が知ってるの?」
ドビーが途端に俯いて床を見つめた。
「ハリー・ポッターはドビーのことを怒っては駄目でございます。ドビーめはよかれと思ってやったのでございます」
「君が僕の杖を盗ったの?」
「ドビーめは考えました。杖がなければ、学校に戻れなくなると」
「返して!」
リリーの後ろから飛び出してハリエットが叫んだ。
「あれは、最後にピーターが――私を――返して!」
わっと泣き出したハリエットの背を撫で、リリーがドビーの前に屈んだ。ドビーは後ろめたそうに及び腰になる。
「ドビー」
「な、なんでございましょう」
「杖は魔法使いにとってとても大切なものよ。でも、それ以上に今のハリエットにとってかけがえのないものになってしまったの。返してくれるわね?」
ドビーは上目遣いにリリーを見ながら、おずおず二本の杖を差し出した。
「ありがとう、ドビー」
グスグス泣くハリエットにリリーが杖を手渡した。ハリエットはギュッと杖を握りしめながらまたリリーの後ろに引っ込む。
「ジェームズ・ポッター、ドビーめはよかれと思って……」
「君の厚意は大変嬉しく思うよ。君の言う罠についても、一度ダンブルドアと話をしなくては。――だが、それでも子供たちをホグワーツへ行かせないなんてことはできない。この子たちはホグワーツでしか学べないことが山ほどあるんだ。私はその機会を奪いたくない」
「あなたはきっと後悔をなさいます……」
ドビーは悲しそうな顔でジェームズを見、そしてハリエットを見つめた。
「ドビーめはお守りしたかっただけでございます……」
パチンと指を鳴らし、次の瞬間にはドビーの姿はかき消えた。