愛に溺れる

ドラコが愛の妙薬を飲んで、ハリエットにメロメロになる







*不死鳥の騎士団『DAと密告者』後、大広間にて*


 尋問官親衛隊になって良かったことは、例に挙げればキリがない。アンブリッジに目を掛けてもらえること、気に入らない生徒に手当たり次第に減点ができること、更には同じ監督生であっても減点ができること――。

 だが、何よりの利点は、WWWの商品の一つ『ワンダーウィッチ製の惚れ薬』を手に入れられたことだった。

 パンジー・パーキンソンがその商品の存在を知ったのは、グリフィンドール寮のお騒がせな双子が退学して間もなくの頃だった。他寮生の女子が、トイレで話しているのを聞いたのだ。ウィーズリーの双子がダイアゴン横丁に出店した店WWWには、惚れ薬が売られているらしい、と。

 アンブリッジが校長になってからというものの――正確に言えば、彼女が校長になる前からフィルチによって禁止されていたが――ウィーズリー製品は全面的に禁止されている。ただ、ずる賢いことに、その状況下でも彼らはふくろう便を使って表面的には分からないように生徒たちに商品を売りつけているようなのだ。そしてその中には、もちろん惚れ薬も含まれる。

 パンジーは、何としてでもその惚れ薬を手に入れたかった。だが、立場がある。万が一バレればスリザリン生からは鼻つまみ者の扱いを受けるだろうし、それに何より、あの双子からものを買うなんてプライドが許さない。

 そんなとき、丁度他寮生の女子が、コソコソと惚れ薬を手に話し込んでいる所を見つけたのだ。これこそ降って湧いた幸運だとパンジーはほくそ笑んだ。

 尋問官親衛隊の権限を使って取り上げた惚れ薬は、大切に大切にパンジーのローブのポケットの中にある。ピンク色のガラス瓶に入った液体がそれだ。瓶を取り上げただけなので、使い方は良く分からないが、ひとまず相手に飲ませれば良いはずだ。世の惚れ薬とは大抵そういうものだ。

 だが、肝心のタイミングがなかった。パンジーの思い人は、もちろん同僚生のドラコ・マルフォイである。ただ、彼は良家の子息らしく、場所を弁えず食べたり飲んだりしない。それこそ、彼の取り巻きであるクラッブやゴイルのような品のない行動は一度だってしたことがない。

 パンジーは彼のそういう潔癖な所ももちろん好きだったが、しかし今回ばかりはそれが裏目に出る。彼が口にする食べ物に惚れ薬を入れられる機会など、大広間以外考えられなかった。

 ただ、大広間にはかなりの人の目がある。うまく入れられたとしても、この惚れ薬は、最初に目にした人に恋をするというのだから、彼が惚れ薬を飲んだ後にすぐ注意を引くという、なかなか高度な技が必要になる。小耳に挟んだ所では、最初に目にした人、という方法でなくても、ちょっとした魔法をかければその場にいなくとも確実に自分のことを好きにさせることもできるらしいが、しかし生憎とパンジーはその説明書を持っていなかった。すなわち、何としてでもドラコが一番に目にする人物は自分でなければいけないのだ。

 決行の朝、パンジーは大層緊張した面持ちで、ドラコの前の席を陣取った。

 いつもはクラッブを蹴散らしてまで自分の隣の席を陣取る彼女が珍しい行動を起こしたので、ドラコは眉を上げて彼女を見た。だが、すぐに興味をなくしたようにパンを千切る。

「ドラコ、今日の一時限目は魔法薬学よ」

 第一声は震えていなかっただろうか。

 パンジーは、お守りのようにギュッと空の小瓶を握りしめた。

「ああ、知ってる」
「ちゃんとレポートはやった? 全く、折角のスネイプ先生の授業なんだから、あの馬鹿げた花火が入ってこないと良いけど」

 一呼吸置き、パンジーは緊張の面持ちで机の上にトンと箱を置いた。その中には、様々なサイズのチョコレートがずらりと並んでいる。

「ドラコ、これ昨日作ったの。ぜひ食べてみて」
「チョコレートをか? パーキンソンにそんな趣味があったとは知らなかった」
「私だってお菓子くらい作るわ。クラッブ、ゴイルも食べなさいよ」
「良いのか?」

 先ほどからドラコの隣で羨ましそうにチョコレートを眺めていたクラッブが、パッと笑みを浮かべた。パンジーは頷く。

「どうぞ」

 歓声を上げてクラッブとゴイルはチョコレートに手を伸ばし、一番大きいものを選び取って食べた。

 賭けではあったが、パンジーの企みはうまくいった。クラッブやゴイルが食べ始めればドラコも断る理由はないだろうし、クラッブとゴイルが食べるとすれば、それは明らかに一番大きいサイズのチョコだ。

 箱の中には、惚れ薬入りの一口サイズのチョコが数個と、その三倍もの大きさを誇るチョコレートが十個程並べられている。クラッブとゴイルが食べる速度は速いが、しかしさすがにこの量は一息に食べ尽くせないはずだ。ドラコが目的のチョコレートを取れば、後は箱を片付けるだけ。単純明快だ。

 パンジーが固唾を呑んで見守れば、ドラコはゆっくりと控えめなサイズのチョコレートを摘まんだ。かかった、とパンジーは思った。自然と上がる口角を抑えるのに必死だった。

 パンジーが箱を片付ければ、クラッブとゴイルからは顰蹙の声が上がった。しかしパンジーはどこ吹く風だ。目的さえ果たせれば、もう二人は用なしなのだ。

 パンジーが熱い流し目を送る中、ドラコは確かにチョコレートを口に入れた。クラッブやゴイルとは比較にもならない、その品のある所作が胸を高鳴らせる。

 チョコレートが手作りだというのは事実だった。だからこそ、他ならぬドラコが自分の手作りを食べてくれたという事実に、パンジーは一瞬行動が遅れた。

 気がついたときには、背後から聞こえてきた爆発音に、ドラコが顔を上げていた所だった。我に返ったパンジーは、慌ててドラコの名を呼んだが、彼からの反応はない。いや、彼だけではない、皆がグリフィンドールのテーブルを注目していた。

「ドラコ――ねえ、ドラコ!?」

 パンジーは焦った。彼の目は今私に向いていない。それどころか――グリフィンドールの方に釘付けだ。

「ドラコ、待って! 私はここよ! ドラコ!」
「あなた達!」

 パンジーが全くドラコの気を引けずに困っている中、げっそりとやつれた顔で、アンブリッジがツカツカとグリフィンドールのテーブルへと近づいていった。目の下のクマはすごいが、しかしようやく犯行現場を捉えられたと彼女の目の光りようと言ったらない。

「今、ここで花火を上げましたわね!? わたくし、見ましたのよ!」

 アンブリッジが迷いなくやって来たのはハリー・ポッターの所だった。確かに彼の近くで花火は上がったが、しかしハリーがやったという証拠はない。

「僕じゃありません」

 もちろんハリーは平然として答えた。

「たぶんピーブズの仕業じゃないでしょうか?」

 ハリーの二つ隣で、フレッドとジョージが互いの脇腹をつつき合っていた。おそらく彼らが持っていた花火が暴発でも何でもしたのだろう。『余計なことを!』とパンジーは今にも射殺さんばかりの目で二人を睨み付けた。

「ドラコ!」

 泣きそうな声でパンジーが叫ぶと、ようやくドラコは身動きし始めた。厳密に言えば、歩き出したのだ――グリフィンドールの方へ。

「ドラコ!?」

 パンジーは必死になってドラコに追い縋ったが、彼は簡単にパンジーを振り払った。パンジーは茫然とその場に立ち尽くす。

「アンブリッジ校長先生」

 ドラコが声をかけたのはアンブリッジだった。

 ――まさか、ドラコはアンブリッジを!?
 パンジーの顔色は真っ青だった。

「ドラコ……一体どうしたの? わたくしは今忙しい――」
「僕は見ていました」

 静かに言うドラコに、アンブリッジの口元はゆっくり弧を描いた。さすが親衛隊ね、と彼女は歌うように付け加える。

「それで……何を見ていたの?」
「ミス・ポッターが何の関係もない所を」
「……はあ? どういうことかしら?」

 アンブリッジは微笑んだまま固まった。ドラコの言っている意味が分からない。

「ポッターやウィーズリーやグレンジャーは何かしたのかもしれません。ですが、ミス・ポッターは何の関係もありません」
「一体……どういうことかしら……?」

 頭が痛いとでも言うようにアンブリッジは顔を顰めた。日夜学校中で暴れる花火を抑えるため、睡眠時間を削ってまで働いている彼女は、寝不足のせいでなかなか頭に理解が行き渡らなかった。

「ですから、ミス・ポッターは何の関係もないんです。幸せそうにパンを食べていただけであって――行こう、ハリエット」

 爽やか百パーセントの笑顔で――どこかセドリックを彷彿とさせる微笑みだ――ドラコはハリエットの手を取った。

「なっ……えっ?」

 衆目の場でドラコに手を握られ、当のハリエットは困惑していた。突然近くで花火が上がり、アンブリッジに難癖を付けられそうになったと思ったら――今度はドラコが? 一体どうしたというのだろう?

 アンブリッジ同様、ハリエットも何が何だか分からなかった。

 戸惑うハリエットすら愛おしげに見つめると、ドラコは彼女を立ち上がらせた。そしてエスコートするかのように手を引いて歩き出そうとする。慌ててそれを止めるのはハリーだ。

「お、おい、マルフォイ! ハリエットをどうするつもりだ!」
「こんな所に彼女をいさせる訳にはいかない。お前達のせいで彼女にあらぬ疑いがかかったらどうする!」

 ハリーの怒りを上回る勢いで返され、ハリーは咄嗟に何も言い返せなかった。ただ虚を突かれた形で、連れて行かれるハリエットを見送ることしかできなかった。

 大広間を出て喧噪から隔てられると、ドラコはようやく足を止めた。ハリエットはやんわり手を離そうとしたが、彼は逆にぎゅっと力を込める。

「ドラコ、一体どうしたの?」

 ハリエットの声はありありと困惑の色が含まれていた。ドラコはくるりと振り返る。

「君のことが心配だったから……」

 不安げにポツリと出てきた言葉に、ハリエットは目を瞬かせた。まさか心配してもらえたなんて思いも寄らなかった。

「あ、ありがとう、心配してくれて。でも、あなたの方こそアンブリッジ先生に逆らうような真似して大丈夫? 親衛隊なのに」
「僕のこと心配してくれるのか?」

 ドラコは嬉しそうに微笑んだ。

「君はとても優しい。優しくて、そしてとても可愛い」

 握られていた手に力が籠もり、ハリエットはえっと顔を上げた。途端に、熱いくらいの眼差しと視線が交わる。

「一体……本当にどうしたの?」
「どうもしない」

 吐息が触れる程顔を近づけ、ドラコが囁いた。

「ただ、君がとても可愛いことにようやく気づいただけだ」
「ドラコ!」

 キーキー声が二人の時間を切り裂いた。揃って振り返れば、憤怒に鼻息を荒くしたパンジー・パーキンソンがそこに立っていた。パンジーは、まるで恋人のような距離にいる二人を見て更に眉を吊り上げた。

「ちょっとあんた! ドラコからは、な、れ、な、さ、い、よ!」

 パンジーは無理矢理にでもドラコからハリエットを引き剥がそうとしたが、ハリエットは引き離せなかった。否、ドラコがそれを良しとしないのだ。むしろ妨害によって彼の中の何かが燃え上がったのか、余計にハリエットを放すものかと彼女の身体に腕を回す。後ろから抱き締められたハリエットは、羞恥と困惑でいっぱいいっぱいの顔になった。

 まるで強力な引き寄せ呪文に掛けられているかのようにビクともしないハリエットに、パンジーは顔を真っ赤にした。

「いい!? ドラコは今正常じゃないの! 何を言われたとしても、真に受けるんじゃないわよ!」
「パーキンソン、人聞きの悪いことを言うな。僕はいつも通りだ」
「いつも通りじゃないわ! あなたは――」

 惚れ薬を飲んだのよ!

 パンジーはそう言いたくて言いたくて仕方がなかった。だが、そんなこと口にしてしまえば、じゃあお前が惚れ薬を仕込んだのかという話になってしまう。ドラコにバレたらおしまいだ。パンジーは、どうしてもドラコに嫌われたくなかった。

「僕は正常だ」

 潔白だと言わんばかりの表情で、ハリエットに向かって言った。

「ただ、ハリエットのことが頭から離れないだけで……」
「それが普通じゃないって言ってるのよ!」

 パンジーは顔を赤くしたり青くしたり大忙しだ。今頃は、彼の熱い瞳は自分だけに向けられるはずだったのに。

「ハリエット、一限目は魔法薬学だろう? 一緒に行こう」

 後ろから耳に向かって囁かれ、ハリエットは反射的にビクッと震えてしまった。恥ずかしさのあまり俯く彼女に対し、ドラコはまたしても『可愛い』と呟く。パンジーは嫉妬でどうにかなってしまいそうだった。

 教室へと向かう道中も、パンジーは何とかしてハリエットとドラコを引き離そうとしたが、ドラコの力には敵わなかった。結局隣でキーキー喚き散らすことしかできない。

 地下牢教室に着き、ついにハリエットが離れると、パンジーは一瞬安堵したものの、当然のようにドラコが彼女を隣に座らせようとしたのを見て蒼白となる。

「ドラコ! ポッターはグリフィンドールよ! 向こうの席に座らなくちゃ!」
「別に寮で席は決まってない」
「私が嫌なの! 他の皆も嫌がるわ!」
「じゃあ僕がこっちに行く」

 ハリエットの手を引き、ドラコは移動した。パンジーは言葉もなくパクパク口を開け閉めした。惚れ薬を前にどう抗えばいいのか、全く以て分からなかった。

 何としてでもドラコをスリザリン側の席に呼び戻したかったが、こうしている間にも続々と他の生徒が教室に集まりつつあった。パンジーは、大人しく席につくしかなかった。ここで目立つ訳にはいかない。ドラコが惚れ薬を飲んだことは、決して誰にも気づかれてはいけないのだから!

 だが、パンジーの努力も裏腹に、ドラコ・マルフォイがグリフィンドール側の席に座っているのは大変に目立った。皆が好奇と奇異の目を二人に向けている。ハリエットは大層居心地が悪そうに教科書を読んでいる振りをしていた。そして肝心のドラコは、そんな彼女を蕩けそうな笑みで見つめている。

 やがて授業の開始と共にスネイプが現れた。ローブを翻し、教壇に立つ。

 彼は違和感にすぐ気づいた。グリフィンドールの自己主張の激しい赤の中に、緑が一人紛れている。よくよく見れば、それはドラコ・マルフォイではないか。

 スネイプの口は何か言いたげに開いたが、結局そこから何か小言が出てくる訳でもなく、『教科書百九十二ページを開け』とだけ口にした。

 身を翻し、スネイプが板書をしようとした所で、バタバタと騒がしく教室に駆け込んでくる者達の姿があった。ハリー、ロン、ハーマイオニー――グリフィンドールの三人だ。スネイプは口元を歪め、微笑みのようなものを浮かべた。

「授業はとっくの昔に開始した。今頃何の用かね?」
「アンブリッジ――先生に捕まってたんです」

 息を整えながらハリーが答えた。

「ああ、朝の件かね? 君たちが食事中に花火を打ち上げたという」
「僕たちじゃありません!」
「では、一体誰がやったと言うのですかな?」

 ハリーはぐっと詰まった。犯人に見当はついていた。だが、仲間を売ることはできない。

 その葛藤を知ってか知らずか、スネイプは大層嬉しそうな顔をした。

「グリフィンドール十五点減点。そろそろ自分たちが五年生だという自覚を持ってほしいものですな。君たちのうち二人は、確か監督生だったんじゃなかったかね? 監督生が二人揃って花火を打ち上げ、他人に罪をなすりつけようとし、その上遅刻とは嘆かわしい……。マクゴナガル教授も、人選を間違えたと言わざるを得ないだろう」

 ハーマイオニーは屈辱で頬を赤くした。鼻息荒く地面を睨み付けるが、口答えはしない。スリザリン生からはクスクス笑いがあからさまに漏れ出ていた。

「何をしている。早く席につけ。これ以上お前達のせいで授業時間を狭められては堪ったものではない」

 ハリーは不機嫌そうに顔を顰めながら、前の席へと歩き出した。グリフィンドールでは魔法薬学の不人気ぶりは言うまでもないので、もう一番前の席しか空いていなかった。煩わしい視線をかき分け、目的の場所へと足を進め――そしてハリーの足は止まった。何か今、あり得ないものを見たような気が――。

 ギギギ、と音がしそうなくらいぎこちなくハリーは振り返った。そこには、ドラコ・マルフォイがいた。スリザリンにもかかわらず、グリフィンドールの席に、しかもハリエットの隣を陣取り、この世の幸せを全て手に入れたかのような、極上の微笑みを浮かべた、ドラコ・マルフォイが――。

「な、なんでマルフォイがここに……」
「ポッター」

 スネイプが不機嫌丸出しで声をかけた。

「席につけと言ってるのが聞こえないのか? 寮杯が夢にも出て来ないくらい減点されたいようだな?」
「…………」

 ドラコに言ってやりたいことは様々あったが、しかしここは何とか踏ん張り、ハリーは席についた。ドラコの様子を見て、ロンはナメクジでも吐きそうな顔をしていたし、ハーマイオニーもまた顔を驚愕の色に染めていた。

「今日は安らぎの水薬を調合する。二人、一組になって材料を取りに来い」

 三人が席につくと、スネイプはそう宣言した。皆はざわめき、仲良しとペアを作ろうとした。ドラコはすぐにハリエットを見た。

「ハリエット、僕と組もう」
「でも私、いつもハーマイオニーと組むのよ」

 そう言ってやんわり断ろうとしたが、ハリエットが決定的な言葉を言う前に、二人の元にパンジーがやって来た。机の前で仁王立ちし、ドラコを熱心に見つめる。

「ドラコ! 私と――」
「パーキンソンはグレンジャーと組めば良い」

 ドラコはさらりとそうのたまった。ハリエットと組もうとこちらに近寄りかけていたハーマイオニーは唖然とその場に立ち尽くす。

「僕が材料を取ってくるから、君はここに」
「ドラコ、でも私――」
「ここで待っていてくれ。すぐに取ってくる」

 まるで、行かないでと追い縋る少女を宥め賺す恋人のように、ドラコはポンポンとハリエットの頭を撫でた。そういうことを言いたいんじゃないわ、とハリエットは言いたくて堪らなかったが、ドラコのその幸せで堪らないといった雰囲気に釘を刺すことなどできなかった。

「……ハーマイオニー……」
「マルフォイ、一体どうしちゃったの?」

 これ以上無いくらいに顔を顰め、ハーマイオニーは囁いた。ハリエットも首を傾げることしかできない。

「私もよく分からないの。何だかいつものドラコじゃないのよ」
「『何だか』どころじゃないわよ。別人よ、別人。ハリエットにベタ惚れの、ポリジュース薬を飲んだ誰かなんじゃない?」

 ハーマイオニーの言葉はある意味的確だった。パンジーはギクリとする。慌ててハーマイオニーの背中を押した。

「グレンジャー! こうなったら嫌々ながらあんたと組むわ。私の足を引っ張らないでちょうだい!」
「それはこっちの台詞だわ。どうして私があなたと組まなきゃいけないの? マルフォイ、頭がおかしいんじゃない?」
「余計なお世話よ! 早く調合するわよ!」

 慌てた様子のパンジーに、ハーマイオニーは考え込むように顎に手を当てた。だが、皆に比べて出遅れていることに気づくと、すぐに授業に意識を引き戻した。

 材料を持ってきたドラコは、にこやかな笑みで再びハリエットの手を取った。そして優しく立ち上がらせる。

「どうしたの?」
「ロングボトムから離れよう。あいつの失敗した魔法薬が君にかかったら大変だ」
「ネビルはそんな失敗しないわ」
「僕、そんなに信用ないかな?」

 バッチリドラコの言葉が聞こえていたネビルは大層落ち込んだ。しかしドラコは気にも留めなかった。

 ネビルから随分離れた場所を陣取ると、ハリエットとドラコは調合を始めた。だが、ハリエットはちっとも調合に集中できなかった。『手を切ると危ないから僕が材料を切る』だとか、『こうしてると、一緒に料理をしてるみたいだ』だとか、『ハリエットの手料理が食べたい』だとか、しょっちゅうドラコが授業に関係ないことを言ってくるので、気が散って仕方ないのだ。しまいには、見かねたスネイプまでもがやってくる始末。

「……ドラコ、我輩の授業は……あー……異性とべったりする時間ではない」

 減点こそしなかったものの、スネイプは咳払いと共にそんな苦言を口にした。ドラコはもちろん聞く耳持たなかったが。

 授業が終わるのをこれ程待ち望んだ日は今までになかった。たった数時間で途方もない疲労を負わされたハリエットは、疲れた顔で教科書を鞄にしまった。それを肩に掛け、さあハーマイオニーの所へ行こうと歩き出した彼女の腕を、またしてもドラコが掴む。

「どこに行くんだ?」
「どこって……ハーマイオニーの所に」
「次も合同授業だろう? 折角なんだから僕と行こう」
「えっ――」
「鞄も僕が持つ。重たいだろう?」

 さり気ない動作でドラコはハリエットから鞄を奪った。更には、あくまで自然を装ってハリエットを手を繋ごうとするドラコ。これには我慢の限界だった。ハリエットではなく――ハリーが。

「マルフォイ、止めろよ。ハリエットが嫌がってるだろう」

 ハリエットの兄の登場にも、ドラコは決して慌てふためかなかった。むしろ微笑みで迎え撃った。

「ポッター、彼女の気持ちは彼女にしか分からない。君にとやかく言われる筋合いはない」
「無理矢理連れ出したくせに、自分が何を言ってるのか分かってるのか? ハリエット! こんな奴嫌いだって言ってやれ! 同情することはない! こいつにははっきり言わないと自分が嫌われてるってことが分からないみたいだ!」
「言葉が過ぎるぞ」

 ドラコは激しくハリーを睨み付けた。たとえハリーからでも、嫌いだ、嫌いだと言われ、なかなかにショックを受けているようだ。顔色が悪い。ハリエットはおろおろした。

「ハリー、でも私、嫌いな訳じゃ――」
「そういうお人好しな所がつけ込まれる隙になるんだ! ハリエット、言ってやれ!」
「ハリエット、行こう。早くしないと授業に遅れる」

 左手はハリーに掴まれ、右手はドラコに掴まれ。ロンはハリエットとドラコを引き剥がそうと躍起になり、ハーマイオニーはというと、訝しげにこのやり取りを眺めていた。

「マルフォイ、いい加減にしろ。誰がお前なんかと――」
「誰もお前を誘ってない。自惚れるなウィーズリー」
「なっ、何だと――」
「行こう、ハリエット」

 軍配はドラコに上がった。怒りのあまり手を離したロンと、ハリエットが痛がるのではと遠慮したハリー。そして、その隙にハリエットの腰に腕を回して抱き寄せたドラコ。結果は火を見るより明らかだった。


*****


 それからというもの、ドラコの行動は時を経るごとに大胆に、遠慮がなくなっていった。その日の合同授業が全て終わり、ハリエットもようやくドラコから解放されるかと思いきや、昼食の時はグリフィンドールのテーブルまでやって来て一緒に食べるし、お昼明けの授業にはなぜか教室までついてくる。さすがに授業まで一緒に受けるなんて強行はしなかったが、授業が終わって教室を出ると、なぜかそこにドラコがいる。次の教室までエスコートされた後は、またさよならをし、授業が終わるとドラコが迎えに来る。その繰り返しだった。

 結局、夕食までべったりドラコに側にいられることになったハリエットは心底疲弊していた。彼の甘言が身体に悪いというのもあった。もともとハリエットは恋愛に耐性がなかったし、そんな状況でしょっちゅう甘い言葉を囁かれては、混乱と羞恥で寝込んでしまいそうだった。

 寝込んだら寝込んだで、医務室での看病を申し出そうな気配がしたので、ハリエットは頑なに体調不良を表には出さなかったが。

 やっとのことでドラコを振り切り、グリフィンドール寮まで戻ってきたとき、ハリエットはぐったりとソファに倒れ込んだ。その傍らでは、深刻な顔をしたハリー、ロン、ハーマイオニーにより、『マルフォイ対策会議』が開かれていた。

「あいつ、呪いのかかりすぎで頭がパーになったんだよ」

 ずっと温めていた説をロンが口にした。

「ほら、今みんな親衛隊に呪いをかけたりしてるだろ? その呪文の一つが、マルフォイをあんな風にしたんだよ」
「何の呪いだろう」

 ハリーは真剣な表情で考え込んだ。

「そういえば、戯言薬っていう魔法薬もあったね? 意味不明な言葉を口にするとかいう……」
「ハリー、マルフォイのは戯言薬の症状には当てはまらないわ。あれは支離滅裂なことを言うものだから。そうね、今回のは、どちらかというと――」

 ハーマイオニーが己の考えを口にしようとしたとき、談話室の窓をコンコンと何かが叩いた。皆がそちらへ目を向ければ、窓枠にワシミミズクがちょこんと降り立っていた。

「誰のふくろうかしら?」

 ハーマイオニーが駆け寄り、ふくろうのために窓を開けてやった。ワシミミズクは迷いなくハリエットの方へ飛んでいく。

「あいつ――思い出した! あの意地悪そうな面、間違いなくマルフォイのふくろうだ!」
「そんな言い方したら可哀想だわ」

 ハーマイオニーが見当違いなフォローをする中、ふくろうはハリエットをつついて起こそうとした。ハリーはワシミミズクをガシッと掴み、それを止めさせる。何とかしてハリーが手紙を奪い取ろうとするが、ふくろうの方も主人に忠実なようで、目的の人物に直接渡したいがために抵抗する。しばらく一人と一羽は奮闘していたが、軍配はハリーに上がった。勝ち誇った笑みを浮かべ、ハリーは封を切ろうとしたが、すんでの所でハーマイオニーが止める。

「ハリー、手紙を貸して。用心するに越したことはないわ。――スペシアリス・レベリオ 化けの皮剥がれよ」

 手紙は、別段何かたちの悪い魔法がかかっている訳ではなかった。ただ、ハーマイオニーが杖を振るった瞬間、手紙からパッと薔薇の花びらが飛び出した。ご丁寧に香り付きだ。ロンは白目を剥いた。

「おえっ、あいつ、本当に大丈夫か? 気障すぎて鳥肌が立つ」
「開けるぞ」

 そっとハリーが手紙を開けると、中からは一枚の羊皮紙が。予想とは裏腹に、中には何とも簡潔に書かれていた。
『天文台の塔で星を見ないか? グリフィンドール塔で待ってる』
「は、は、ハリー……」

 呆れた方が良いのか、笑い飛ばした方が良いのか、ロンは正解が分からずハリーを見た。

「マルフォイが、ハリエットをデートに誘ってる……」

 どうするつもりだ? とロンは問いかけるつもりだった。だが、すぐに後悔した。親友はとんでもない般若へと変化していた。

「あいつ――いよいよハリエットにちょっかいをかけるつもりか?」

 ハリーは不敵な笑みを浮かべた。

「一言言ってやらないと気が済まない」
「何をするつもり?」
「今後一切ハリエットに近づくなって言ってくる」

 ハリーは勇ましい表情で肖像画へと向かった。慌ててハーマイオニーは彼を引き留める。

「ハリー、しばらく様子を見ていた方が良いわ。相手がどう出るか分からないもの」
「そんなこと言ったって、ハリエットはあんな状態なんだぞ!」

 ハリーはハリエットを指差した。ソファの上では、背中を丸めたハリエットがぐったり身体を横たえている。

「大丈夫、何かあったとして、証拠は残らないようにするさ……」

 ハリーは些か不穏な言葉を残して談話室を出て行った。クィディッチを止めさせられたハリーに、もはや怖いものは何もないようだ。

 それから、固唾を呑んでハリーの帰りを待っていたロンとハーマイオニーだが、おかしい。いつまで経っても彼は戻ってこない。

 片割れがいなくなったことに気づき、ハリエットもゆっくり身体を起こした。

「ハリーはどこに行ったの?」
「ハリエット……」

 ハーマイオニーは、言うべきか否か考えあぐねていた。しかしロンが躊躇いもなくバラした。

「マルフォイと話をつけに行ったんだよ。天文台の塔で君と星が見たいって気障なことを言い出したから」
「ロン!」
「ドラコと? まだ戻ってこないの?」
「もう三十分は軽く経ってる。何かあったのかな」

 ロンは気遣わしげにチラチラと時計を見た。

「これは……確実にハリーに何かあったんだわ」

 ハーマイオニーは鬼気迫った表情で呟いた。ロンは顔を顰め、ハリエットは目を丸くした。

「どうして? 確かに心配だけど……」
「だって、今のマルフォイは、完全にハリエットにお熱じゃない」

 ハーマイオニーは間違いなくハリエットを見た。

「だからこそ、マルフォイにとって、ハリエットと結ばれるには」
「ハーマイオニー、冗談でもそういうこと口にしないでくれよ」

 珍しくロンが真面目な顔で言った。ハーマイオニーはコホンと咳払いをする。

「ハリエットをものにするには、ハリーは一番の障害よ。障害は――潰しておくに越したことはない」

 ハリエットの肩は跳ねた。まさか、そんな――そんなことがあり得るだろうか?

 ドラコが今、体調が悪いとか何とかで、自分にやたら執着心を持っているというのは分かる。認めざるを得ない。しかし、だからといって、ハリーにまで手をかけようとするだろうか? そこまでする理由が自分にあるとはどうにも思えなかった。

「仕方ない。ちょっと様子を見に行ってくるよ」

 そう言ってロンは立ち上がった。ハリエットは不安そうに彼を見た。

「危ないわ。ドラコがそんなに危険だとは思えないけど、もし万が一何かあったら……」
「こうしてる間にも、マルフォイがハリーに呪いをかけてるかもしれない。でも二対一なら勝利はこっちのものだ。だろ?」

 ロンは得意げに笑って談話室を出て行った。それから三十分経っても尚、彼は戻ってこなかった。

 次に立ち上がったのはハーマイオニーだった。最初から、ロンが三十分経っても戻ってこなかったら自分が行くと決めていたのだ。ハリエットはもちろん引き留めた。

「ハーマイオニー、危険よ!」
「大丈夫よ、安心して。私、彼の症状に心当たりがあるの。ちょっと確認してくるだけよ」
「でも――」
「いい? もし私が帰ってこなくても――絶対に談話室から出ちゃ駄目よ。今のマルフォイは、何をしでかすか分からないから」

 ハーマイオニーは、ドラコを完全に悪と決めかかっていた。しかしハリエットもこの状況下ではそう思わざるを得なかった。ドラコが――ハリーとロンに何かしたのかもしれない。

 私も一緒に行くと言うハリエットを何とか押し止め、ハーマイオニーは談話室を出て行った。そして――彼女もまた戻ってこなかった。

 ハリエットの不安と心配は振り切れていた。冷静に考えるだけの思考力はもはや残っていない。杖をポケットに忍ばせ、ハリエットは決意をその瞳に漲らせ、談話室を出た。

 肖像画の外はひんやりしていた。人気は無い。まだ消灯時間前だが、生徒は早々に各寮に引き上げたのだろう。誰だって、校内のあちこちで爆発する花火の餌食にはなりたくない。

 皆はどこだろう、とハリエットはキョロキョロ見回しながら廊下を歩いた。一つ下の階段を降りる最中、誰かが同じように階段を上がってくるのに気づいた。目を凝らせば、スリザリン色のローブ――ドラコだ。

 ハリエットはピタリと足を止めた。それを訝しく思い、顔を上げたドラコは、パッと華やぐような笑みを浮かべた。

「ハリエット! 来てくれないかと思った」
「…………」

 浮かない顔のまま、ハリエットは反応しなかった。代わりにとんと足が一歩階段を上る。

「ハリーとロン……ハーマイオニーを知らない?」
「ポッター?」

 視線を逸らし、ドラコは『ああ』と呟いた。

「スネイプ先生に連れて行かれた。こんな時間に何してるんだって」
「でも、今はまだ消灯時間前よ。どうしてスネイプ先生が?」
「それは知らない」
「じゃあ、ロンとハーマイオニーは? ここを通ったでしょ?」
「僕も危うくスネイプ先生に寮に連れ戻される所だったから、二人は知らない。戻って来ないのか?」

 こくりと頷きながらも、ハリエットは納得しきれずにいた。ハリーの姿が見えなければ、ロンとハーマイオニーは帰ってくるはずじゃないだろうか? ロンはまだしも、冷静なハーマイオニーなら。

「ハリエット、手紙にも書いたけど、一緒に星を見に行こう。ここに来てくれたってことは、君もそのつもりなんだろう?」

 ハリエットは頷かなかった。ドラコを真っ直ぐ見つめたまま、彼から目を離さない。

 ――まるで、今のドラコは別人のようだった。ドラコであって、ドラコではない。いつものドラコならば、ハリエットは彼の言葉を信じたかもしれない。でも、今日の――今の彼は、あまりにも豹変しすぎていて。

「……本当に知らないの? ドラコは、三人に何もしてないわよね?」
「僕は……何もしてない!」

 声を荒げ、ドラコは数歩階段を駆け上った。怯えたようにハリエットが階段を上がるのを見て、彼は悲しそうに俯いた。

「……君に信じてもらえないのは、何よりも悲しい」

 落ち込んだ様子でそう呟き、ドラコは身を翻して階段を降りていった。彼の姿が見えなくなって初めて、傷つけてしまったのだとハリエットはようやく気づいた。しかしもうその時には遅い。彼は行ってしまったのだ。


*****


 それから、どうやって談話室に戻ってきたのかは覚えていない。気づけばハリエットはソファの上にぼうっと座っていたのだから。

 いつの間にか消灯時間は過ぎていた。ハリーもロンも、ハーマイオニーすら戻ってこない。しかしもうハリエットには分かっていた。戻ってこないとは言え、そこにドラコの関わりはない。三人は、何らかの原因で寮に戻ってこないだけなのだ。

 辛抱強く待っていると、唐突に肖像画が開いた。そこから転がるように飛び出したのはロンとハーマイオニーだ。汗を滴らせ、二人は激しく肩で息をしている。

「二人とも、一体何があったの!?」
「フィルチだよ!」

 喘ぎながらロンが答えた。

「ハリーを探そうとして早々、フィルチに見つかってさ……まだ消灯時間前なのに、こんな時間にうろついてるのは、また花火を仕掛けるつもりだろうっていちゃもん付けてきて!」
「私も、しばらく二人を探して、それでも見つからなかったら戻ってくるつもりだったの。でも途中でフィルチから逃げ回ってるロンを見つけて――」
「助けてもらったってわけ。ホント、ハーマイオニー様様だね!」
「調子が良いこと! でも私、もう二度とあんなことやらないわ。監督生なのに、フィルチに魔法を使ったりして、もしバレたら――」

 ハーマイオニーは真っ青になったが、ロンは軽快に笑い飛ばすのみだった。ハリエットはホッと一息ついた。これでハリーさえ戻ってきてくれれば、文句はない――。

 ハリーが戻ってきたのは、それからまたしばらく経ってからだった。げっそりとやつれた顔で、見事に不機嫌丸出しの顔でソファにどっかり座った。

「ハリー、スネイプ先生に連れて行かれたって聞いたけど――」
「あいつ、最悪だよ!」

 パッと顔を上げ、ハリーは不満をぶちまけた。

「丁度寮を出た所でマルフォイと出会って、だから話をつけようとしたんだ。でもそこへスネイプがやって来て、こんな時間に何してる、暇があるのなら手伝いでもしろって!」

 ハリーは怒りのあまりバンとソファを叩いた。

「手伝いという名の罰則だったよ! 全く、蛇の牙を砕いてるとき、何度手に持ってる棒でスネイプの頭をぶん殴りたいと思ったことか!」

 ハリーが戻ってきたことが嬉しいはずなのに、ハリエットの心はどうも晴れなかった。結局、ドラコは三人とは何の関係もなかったのだ。――彼にひどいことを言ってしまった。彼を信じてあげられなかった。

「とにかく、今日はもう寝ようよ。マルフォイも諦めたみたいだし」

 ふわっとロンが大あくびをした。ハリエットがハッと顔を上げたことには、その場の誰も気づかなかった。

「そうだね。明日にはあいつの頭も元に戻ってることを祈っておくよ……」

 おやすみの挨拶をして、四人はそれぞれの寝室に移動した。ネグリジェに着替えると、ハーマイオニーもすぐにベッドに潜り込み、ハリエットも同じくそうしたが――眠れない。脳裏にドラコの悲しげな顔がちらついた。ハリエットは五分も経たないうちにベッドから抜け出した。

「ハリエット?」
「ちょっと……お手洗い」

 眠そうなハーマイオニーの声に応え、ハリエットはネグリジェの上からローブを羽織ると、忍び足で寝室を抜け出した。そして談話室に降り立ち――辺りを窺うようにしながら寮を出た。太った婦人は眠そうに大きく欠伸をしながら、『早く帰って来ないと、私もう寝るわよ』と言葉を残した。

 杞憂ならそれでいい。フィルチに見つかってしまうのは避けたいが――このまま全てを忘れて眠りにつくなんてことはできなかった。

 廊下を歩いていたときは、まだどこからか花火が爆発する音が微かにしていたが、しかし螺旋階段を昇り始めると、その音もやがて聞こえなくなった。天文台の塔は、ホグワーツ城の中で一番高いのだから、それも当然だろう。

 重い扉を押し開くと、冷たい風が吹き荒び、ハリエットはぶるりと身体を震わせた。仄かな月明かりの中、バルコニーに誰かが立っているのが見えた。ハリエットは息を呑む――やはり彼はここにいたのだ。

「ドラコ……」

 小さくハリエットが声をかけると、彼の身体はピクリと動いた。だが、振り向かない。ハリエットは近づき、彼の腕に触れた。ドラコの身体はひんやりと冷たかった。春は目前といえど、今は深夜だ。長時間こんな所にいれば、芯から冷え切ってしまうこと確実だ。

「ごめんなさい、私……あなたを傷つけたわ。三人とも、無事戻ってきてくれたの。あなたは関係なかった。……ごめんなさい」
「……僕はそんなに信用ないか?」
「そういう訳じゃないの。でも、今日のあなたは――まるで別人だから」

 ハリエットは躊躇うように視線を落とした。

「ドラコは……私のこと……」

 言葉を濁し、ハリエットの声は尻すぼみに消えた。ハリエットも、そろそろ気づかない訳にはいかなかった。もしかしたら自意識過剰なだけかもしれないが、彼は――。

「好きだ」

 答えはすぐに返ってきた。

「好きなんだ」

 いつの間にかドラコは振り向いていた。見覚えのある、あの熱いくらいの視線でハリエットを見つめている。それ以上見ていられなくて、ハリエットは目を逸らした。

「でも、今日のあなた、本当におかしいわ。何か……変なものでも食べたんじゃないの?」
「僕のこの気持ちが偽物だって言いたいのか?」

 ドラコは切実に訴えた。

「どうして僕の感情を君が否定するんだ? 僕のことは僕にしか分からないのに」

 確かにそうだ、とハリエットは思った。ドラコは自分の気持ちを口にしているだけなのに、なぜそれを他人が否定するのか――。

 そう思った瞬間、途端に恥ずかしくなって、ハリエットの頬にカッと熱が集まった。だったら――だったら、彼は本当に私のことが好き? ドラコが、私のことを?

「わ、私、全然気づかなくて……い、いつから?」
「いつからだろう……今朝ハリエットを見たときから、ずっと君のことが頭から離れないんだ。こんなの初めてで、僕もどうしたら良いか……」

 墓穴を掘ったとハリエットは思った。今日は一日中、ドラコに熱でもあるんじゃないかと思っていたので、ほとんど彼の言葉は聞き流していた。でも今、ハリエットは意識してしまっていた。ドラコの今の言葉が本心そのものなのだと。

「君の気持ちを聞かせてくれ。僕のことをどう思ってる? 少しでも――好きだと思ってくれるなら」

 付き合って欲しい、とドラコが締め、ハリエットの顔は更に赤くなった。おろおろと無意味に視線が彷徨う。

「わ、私……分からない……。ドラコのことは好きだけど、そういう好きじゃないかもしれない……。ごめんなさい。私、突然でよく分からなくて……」

 傷つけてしまっただろうか、とハリエットは手をぎゅっと握りしめる。そして慌てたように付け足す。

「で、でも、すごく嬉しかった。ドラコの気持ち……どう言い表せば良いか分からないけど、とても嬉しかった」

 ドラコの父親を告発する記事を出してからというもの、ハリエットとドラコはほとんど言葉を交わしていなかった。だからこそ、様子はおかしかったものの、今日はドラコと一緒にいられて少なからず嬉しく思ったし、今回のことだって、嫌われていないのだと分かってホッとしたのも事実だった。

 しばらくドラコは何も話さなかった。チラリとハリエットが視線を上げたその瞬間、ドラコは一歩ハリエットに近づいた。

「今は……その気持ちだけで充分だ」

 彼は微笑んでいたが、その微笑は、どこか寂しげにも見える。自分の返答が彼にこういう表情をさせているのだと、ハリエットの胸は痛んだ。

「でも、胸が苦しい……」

 まさにその瞬間、ドラコも同じことを言った。

「嫌われてないだけ良いと思わないといけないのに、僕は、君が誰か他の人のものになることを想像するだけで苦しくて堪らなくなる」
「ドラコ……」
「抱き締めても良いか?」

 唐突に言われ、ハリエットは驚いて目を丸くした。しかし彼は真剣な表情だ。

「……嫌じゃなければ」

 そう悲しげに呟くドラコに、ハリエットは心を動かされた。しかしハリエットは逡巡する。ハグなんてスキンシップは、今までほとんどしたことがなかった。ただ、感極まったとき、ハーマイオニーがよくハリーやロンに抱きついたりしていたのは何度か見たことがあった。異性であっても、友達ならそういうスキンシップもありだろう。ハリエットはそう結論づけた。中には、これ以上切なげに見られるのは耐えきれないという理由もあったが。

 ハリエットが黙って両腕を広げると、ドラコの青白い顔が血色良く色づいた。そして徐にハリエットに近づき――抱き締めた。

 ドラコの両腕に閉じ込められて早々、ハリエットは己の選択を間違えたと思わざるを得なかった。ただでさえドキドキしていた心臓が、更に早鐘のように鼓動を打ち始めたからだ。ハグは安心すると聞いたことはあるが、ハリエットは全く落ち着かない気分だった。男の子とこんなに密着したのはいつ振りだろう。昔はハリーと同じベッドで寝ていたし、シリウスとは何度かハグはしたし――でも、それくらいだ。ハリエットには異性への耐性がなく、だからこそハグ一つで顔が熱くて堪らなかった。

「何を考えてる?」

 不意に耳元でドラコが囁いた。咄嗟にハリエットは何も答えられなかった。それが気にくわなかったのか何だったのか――ドラコはハリエットの首筋に顔を埋めた。くすぐったい感覚に、思わずハリエットの口から変な声が出た。

 精一杯彼から離れようともがくが、それは適わない。男子の腕力の前ではハリエットの抵抗など可愛いものだった。

「ど、ドラコ! いくらなんでも――駄目よ!」
「ごめん……我慢できなくて」

 ゆったりしたネグリジェの襟口から、ドラコの吐息が首に、鎖骨に触れる。ゾクッとした感覚が背筋を走り、ハリエットは反射的に後ずさるが、後ろにはもう壁しかなかった。ドラコに一歩詰め寄られたハリエットは、そのまま壁を背にズルズルとバルコニーに倒れ込む。

「髪と同じくらい真っ赤だ」

 月を背にドラコが嬉しそうに微笑む。

「だ、誰のせいだと思って――」
「可愛い」

 非難の声を余所に、ドラコは再びハリエットの首に顔を埋めた。いつの間にかローブの前は解かれていた。リップ音と共に、ドラコは白い肌に吸い付く。ハリエットはチクッとした痛みに悲鳴を上げた。

「な――何したの?」

 ドラコの顔が離れると、困惑の表情でハリエットはパッと首を押さえた。しかしドラコの目にはちゃんと映っていた。ハリエットの白い肌によく映える、赤い印が――。

 満足げに微笑むと、ドラコは再びハリエットに近づこうとした。だが、さすがのハリエットも、これ以上されるがままではいられなかった。ポケットに入れていた杖をサッと引き抜き、躊躇いもせず杖先をドラコに向ける。

「エクスペリアームス!」

 武装解除の呪文は、真正面からドラコに直撃した。ドラコは軽く宙を飛び、後ろの壁にゴツンと頭をぶつける。かなり痛そうな音がした。ハリエットは我に返り、四つん這いで恐る恐るドラコに近づいた。

「ど、ドラコ……?」

 返事はない。彼の顔色が悪いのはいつものことだったが、しかし焦ったハリエットは、それが自分のせいではないかと思い込み、慌ててドラコに必死に呼びかけた。

「ドラコ! 大丈夫!? ごめんなさい、私、手加減も無しに――」

 DAの特訓の成果はまずいときに発揮されたようだ。ハリーがここにいれば満面の笑みでよくやったと讃えてくれるのだろうが、しかしドラコと友達であるハリエットにとっては、まずい。完全にやり過ぎた。

 僅かな間をおいて、ドラコが呻いた。ハリエットはパアッと笑みを浮かべてドラコの身体を揺すった。

「ドラコ! 起きて! ねえ、大丈夫?」
「――揺するな! 頭痛が酷くなる……」

 反射的に低い声で言い返し、ドラコはゆっくり目を開けた。痛む頭と、チカチカする視界。そんな中、最初に目に飛び込んできたのは、ネグリジェの襟口をはだけさせ、潤んだ瞳で己を見つめるハリエット・ポッター――。

 愕然として、ドラコはマジマジとハリエットを見つめた。どうして目の前に彼女がいる? それに、ここはどこだ? どうしてこんな時間に――今は夜か――なぜ二人きり? そんな格好で、彼女は――。

 じわじわと頭に理解が行き渡り、ドラコは顔に熱が集まるのを感じた。後ずさろうとしたが、生憎と背中には冷たい壁しかない。ドラコはハリエットを睨み付けた。

「離れろ! お前――そんな格好で――」
「頭大丈夫? すごく痛そうな音がしたわ」

 心配そうな表情でハリエットはドラコを覗き込んだ。ドラコの顔は更に赤くなる。

「そうだ、確かお前が――」

 ぎゅっと目を瞑れば、ドラコの脳裏に先程の光景が蘇ってきた。確か、自分は彼女に武装解除をかけられてこんな目に遭ったのだ。そう、そしてその前は、自分が近づこうとして――。

 あれ、とドラコは思った。自分は、確かに覚えていた。ここに来たのも、ここで何をしていたのかも。今日は一日中彼女にひっついていたのも覚えているし、己の手で、確かに『星を見ないか?』と誘い文句を綴ったのを覚えているし、それどころか、ハグだけとのたまって、彼女を襲いかけたのも覚えている――。

「ちっ、違う!」

 反射的にドラコは叫び、ハリエットを突き飛ばした。何が何だか分からなかった。今日の出来事はちゃんと覚えているのに、まるで今夢から覚めたような感覚だ。自分がしでかしたことなのに、自分はその時何を思っていたのか、全く覚えていない――。

「お前、僕に何をした!? 僕はこんなこと――するつもりじゃなかった! 僕は何もしてない!」
「い、一体どうしたの?」

 すっかり豹変したドラコに、ハリエットは困惑を隠せずにいた。ぺたんと地面に尻餅をついたままローブの裾を握りしめる。

「でも、ドラコがハグしたいって――」
「君は流され易すぎる!」

 混乱のあまり、ドラコは責任をハリエットに押しつけようとした。

「君は誰でもいいのか!? 誰かその辺の男にハグしようって言われても、ハグするのか!?」
「私のせいだって言うの!?」

 ハリエットはわなわな震えた。ドラコがあんまり切なげに言うから、頼みを聞こうと思ったのに――。

「私は――あなただったから拒めなかっただけよ!」

 ドラコは一瞬言葉を失った。マジマジとハリエットを見る。だが、その次にハリエットの口から出てきた言葉に表情を強ばらせた。

「誰でも良い訳ないわ! 友達だったから――」

 ドラコの瞳に、明らかな失望のような色が過ぎるのが見えた。ハリエットがそのことを深く考える前に、ドラコは吐き捨てるように叫んだ。

「ウィーズリーでも拒まないって言うのか!? はっ、とんだ尻軽じゃないか! ザビニで懲りてないのか!? 君は自分の危機感のなさをもっと自覚した方が良い!」
「ひ、ひどい……」

 あんまりな言い様に、ハリエットはついにポロリと涙を落とした。友達だから――ドラコに嫌われたくなくて――彼の言う通りにしただけなのに。彼を傷つけてしまったと思ったから、深夜にここまでやって来たのに。それが全部、『尻軽』だと称されるなんて。

 静かにしくしくと泣くハリエットに、ドラコは居心地の悪さを覚えていた。冷静になって考えてみれば、今回のことは全部自分がしでかしたことだ。自分が彼女をここに呼び出し、自分が彼女に無理矢理触れようとしたのだ。どうしてこんなことになったのかは分からないが、彼女が悪い訳ではない。確かに彼女に危機感はないが――それが、『あなただったから』という理由に、今更ながら胸に染み渡る。

 優越感のような、征服欲のような、いや、それらとは全く違う、温かい何かがドラコの荒ぶっていた心を穏やかにさせた。同時に湧き上がってくるのは、泣かせてしまったという罪悪感。

 ドラコは謝ろうと口を開いた。しかし、生まれてこの方、謝罪など両親にしたことしかないかもしれない彼が、素直に『ごめん』の一言を口にできる訳がなかった。

 ハリエットを見下ろし、ただパクパクと口を開け閉めするドラコ。ハリエットの泣き声だけが寂しく響くバルコニーに、冷え冷えとした声が響いた。

「マルフォイ……ハリエットに何をした?」

 冷水を浴びせられたように、ドラコはバッと顔を上げた。暗闇からぬっと出てきたのは、明るい緑の瞳に燃えるような怒りを湛えるハリー・ポッター。

 ドラコは、この時ほど彼に恐怖を抱いたことはなかった。

「は、ハリー……」

 ハリエットが弱々しい声を上げた。ハリーは気遣わしげに妹を見やる。そしてハッと目を見開いた。ハリーは確かに目にした。ハリエットのはだけたネグリジェと、首筋にくっきりと浮かぶ赤い印を――。

 妹のとんでもない姿に、カッとハリーの頭に血が上った。妹に無体を強い、そして泣かせた犯人は一人しかいない。そしてその犯人は、自分の長年の宿敵――。

 その夜、ホグワーツ一高い場所で、花火よりも激しく鮮やかなハリーの怒りが爆発した。

「エクスペリアームスッッッ!!」